集落の歴史と人

 島津又七 氏


ここでは、口永良部島の「歴史年表」のなかから関連する項目を選び、下記の郷土誌からも転記載した.
吹上郷土史(中),吹上町教育委員会,1969
吹上郷土史,通史編2巻,吹上町教育委員会,2003

年 次 内 容     備 考
 

<注 ポータルサイト管理者>2014年11月
ネットで、島津又七氏を検索すると、島津久籌( しまづ-ひさとし)とあり、下記の記載があります。  

コトバンク
島津久籌 しまづ-ひさとし
1827-1911 幕末-明治時代の武士,神職。
文政10年5月18日生まれ。島津登の子。薩摩藩、永吉郷(ながよしごう)領主。島津久光につかえ、大目付となる。第1次幕長戦争では藩の先鋒(せんぽう)副総督をつとめる。慶応3年(1867)若年寄として藩兵をひきいて京都を警備。鳥羽伏見の戦いののち、藩の軍務を統轄。維新後、霧島神宮宮司(ぐうじ)をつとめた。明治44年9月26日死去。85歳。通称は権五郎,主殿,又七。

◆コトバンクに
記載されている、生年と没年は、島に残された又七の墓碑と一致する。
  <注 ポータルサイト管理者>2014年11月

◆霧島神宮への問い合わせ
(2014年11月)
維新後の初代宮司は、島津久風の3男である田尻 務(つかさ)、明治10年12月まで宮司。霧島神宮には、島津又七あるいは島津久籌の名前は記録にない・・・・とのこと。
<注>霧島神宮・宮司の件は、疑問がある。島津家の系譜をたどり確認する必要がある。
  「薩陽武鑑」によると、このころの永吉郷の禄高は4400石<吹上(中)>p282
 
  <吹上郷土誌からの転記載>2016年7月

◆島津又七 幕末最後の永吉郷の当主
又七郎(勇勝院)の次に、島津登(久苞)の長男久陽(又七)が永吉家をついだ。

◆長州出兵
元治元年(1864)8月幕府が長州征伐を布令したので、久陽は薩軍の副隊長として小倉に出征したが、薩軍は長州に兵を出すのを好まず戦闘には参加しなかった。慶応四年(明治元年、1868)、鳥羽伏見の戦いがおこり、久陽は外城士一隊長として前ケ浜より薩藩の汽船にて出陣し、京都守衛の任についた。兵数、氏名は伝わっていない。
久陽は後に、沖縄銀行の頭取となったが、銀行が破産したため、所有地の口永良部島引き移り彼の地で没した。<吹上(中)>p282

◆斉彬公の異母弟
系図には第14代の領主が又七とあり、名前は久陽とされている。さらに、記述の中に「実は斉彬公の異母弟」とある。また、「一度、島津権五郎登久苞の猶子となり、更に藩公の命により又七郎(勇勝院)の跡を嗣いで永吉を領す。永良部島に死す。維新の功により正五位を贈」とある。<吹上(中)>p309

<吹上郷土史・通史編>では、
第14代の領主の名は久籌とある。経歴などやや詳しい記述があるが下記はその抜粋。
安政2年(1855)に、家督相続が許され、権五郎を主殿と改名した。
文久3年(1863)には、薩英国戦争のため、久籌は2か月交代で台場の当番をしている。元治1年(1864)、京都二本松藩邸で大目付、8月には長州出兵の先陣で副総督に就いている。慶応元年(1865)宗門方掛、慶応3年には京都守衛にもあたり、家老方用向を務め、戊辰戦争では本営にあった(明治維新人名辞典からの引用のようである)。<吹上通史>p16-17

◆重責を担う
明治2年の小松清廉(帯刀) からの書状には、久光の急ぎの上京を伝え、京都における配慮を依頼している。久籌の当時の重責が窺われます・・・・とある。<吹上通史>p16-17

◆新村の 開村100周年
昭和43年(1968)南日本新聞は、「口永良部の新村部落誕生百年に誓う」と題して、3月で百年を迎えた口永良部新村部落は、この程一足早い(明治百年)の祝いをしたと報じ、古老たちの思い出や島の歴史を次のように伝えている。<吹上(中)>p283

「この部落は明治元年三月、初代の代官島津又七の来島にはじまる。当時、大政奉還の恩賞として、藩制の頃盛んだった薩藩とイギリス密貿易基地・口永良部島を又七がもらい、七人の家来をつれて来島、新村一帯の山林と新岳・古岳一帯の開拓がはじまった。古老の話によると入植者は六ケ月間、又七代官より成人男子に米1斗2升〈18キロ〉、成人女子に八升(12キロ)、さらに子どもにも一定割合で米が配られ、耕地が与えられた。その代償として又七代官の土地の耕作を引き受ける仕組みで、大正13年まで続いた。
大正13年二代目久徴代官が東京に引きあげる時、三十ヘクタールの耕地を20戸に払い下げた。だが、1万円の支払いに苦労、結局5年かかってサトウキビ製糖で得た金をつぎ込み完納したと云う」<吹上(中)>p283




<吹上郷土史、中>では、第14代の領主の名は久陽とある。



<注>
明治13年に設立された沖縄第152国立銀行があるが、設立の役員、出資者の中には、又七の名はない。出資者に島津久徴(又七の息子と同名)の名前があるが、元家老で又七とはかかわりが見られない。

<吹上郷土史・通史編>では、「斉彬公の異母弟」は2代前の当主である久陽(同名)としており、郷土誌に混乱が見られる。



<吹上通史>では、第14代の領主の名は久籌とある。
















<注>新村開村120周年は1992年に祝われ記念碑が建立されている。入植は明治5年であろう。また、入植者は家来ではないようだ。














<注>1万円
<安山:島の歴史(3)>p30では、1戸あたり700円とある。整合性はある。
1869
明治2
◆日置永吉郷の領主であった島津又七が明治2年に移住。島全体を藩主から譲られた。
その後、又七は、明治18年地租改正の折に、税金対策のために、必要なところを選んだ。火山から、硫黄を採掘した。また、湯向の「口永良部島牧羊社」に参加した。<安山:島の歴史(3)>p30
<注>
明治2年の入植時、島津又七は42歳。
薩摩藩で高い地位にあり、新政府でそれなりの職につけたであろう。離島に入植した動機は興味深い。
1871
明治4
◆明治4年、島津又七が山頂付近を借地し、採掘を始めた。この事業は明治20年ころまで続いた。<屋久高:報告>  
1872
明治5
◆日置郡永吉の領主、島津又七が新村に入植。<安山:島の歴史(3)>p29
◆島津又七が11人を率いて入植。11人は又七の家来ではない。一般募集か命令かは不明。谷山から農民の大穂、野元。国分から矢野など11人。又七は、11人には農業を営ませ、使役を課し、羊を導入、赤牛で材木を搬出させた。
農地、牧場の他に、硫黄鉱山も所有した。これらは、後年他人の手に渡った。
明治維新後にもかかわらず、又七は封建的な支配をした。鹿児島県の田舎では珍しいことではない。又七は、明治44年没。一族は鹿児島から連れてきた使用人に資産を売り払い、内地に引きあげた。<安山:島の歴史(3)>p29,30
◆新村
野元、大穂は谷山から、矢野は国分から又七とともに入植。坂口は宮崎県出身で、又七に伴われてきたのではない。他に、鎌田、大塚がある。鎌田は婚姻により余所から入った。大塚は元来、本村である。<安山:島の歴史(3)>p30
 
1883
明治16
◆士族授産事業の一環として、伊集院兼盛以下士族43名で「口永良部島牧羊社」が設立された。設立者は現業に参加せず。飼育主任は薬丸猪八郎、代表は有馬純行。又七も経営に参加した。下総より綿羊175頭を導入。牧場は島の東北部400町歩の原野。明治18年度には東京千住製繊所に羊毛を販売。薬丸は安房にも原野貸下を申請した。
明治22年、「牧羊社」解散。その後、薬丸は、伊藤と共に区の運営などに関わるが、資産を売り払い、戦前内地に引き上げた。<屋久高:報告>出典:県史第4巻p322、「鹿児島県畜産史、中巻」大正2年刊。
◆牧羊は島津又七の経営で、明治37年頃まで飼育が続いた。<安山:島の歴史(2)>p24
◆島津又七一族は、自らが連れてきた使用人に財産を売り引き上げた。<安山:島の歴史(2)>p25,p26、<安山:島の歴史(3)>p33
新村の人たちは、又七の土地を1戸当たり700円で入手、5年かかって支払った。<安山:島の歴史(3)>p30
 
1889
明治22
◆「牧羊社」が解散。<安山:島の歴史(3)>p30  
 1911
明治44
 ◆島津又七没 88歳(永吉郷へ帰郷した年は不明)   
薬丸猪郎 氏 と その他の人たち


ここでは、口永良部島の「歴史年表」のなかから関連する項目を選んで記載した。

年 次 内 容     備 考
1883
明治16
◆馬毛島での牧羊の成功を見て、伊集院らが口永良部島に牧場を開いた。明治16年設立、22年には抵当公売処分。<安山:島の歴史(3)>p30
◆士族授産事業の一環として、伊集院兼盛以下士族43名で「口永良部島牧羊社」が設立された。設立者は現業に参加せず。飼育主任は薬丸猪八郎、代表は有馬純行。又七も経営に参加した。下総より綿羊175頭を導入。牧場は島の東北部400町歩の原野。明治18年度には東京千住製繊所に羊毛を販売。薬丸は安房にも原野貸下を申請した。明治22年、「牧羊社」解散。その後、薬丸は、伊藤と共に区の運営などに関わるが、資産を売り払い、戦前内地に引き上げた。<屋久高:報告>出典:県史第4巻p322、「鹿児島県畜産史、中巻」大正2年刊。
◆湯向には、
士族の薬丸猪八郎、伊藤甚熊が住み、帯刀していた。明治31年に諏訪瀬島から移住の畠、原口、西、久木山らを支配した。その勢力は本村にも及んだ。<安山:島の歴史(2)>p24
◆ 薬丸猪八郎は、明治33年に上屋久村の村長に。p362
村長を5期続けた後、本村区長を勤め、竹崎真之介とともに区のために尽くした。<安山:島の歴史(2)>p24
◆その後伊藤一族は、畠正助に財産を40円で売却し島を出た。<安山:島の歴史(2)>p25,p26、<安山:島の歴史(3)>p33
 

薬丸猪八郎
「下総牧羊場職員名簿」には、明治8年9月から明治16年8月まで在職とある。退職後すぐに、口永良部島の牧羊社に関わっていることになる。

出典:友田 清彦、下総牧羊場の系譜、出所は、下総御料牧場沿革誌

1883
明治16

伊集院兼盛
明治16年設立の「口永良部島牧羊社」と、設立者である伊集院兼盛の名前は、前田正名関係文書目録/国立国会図書館/1969/D1-23 に記載がある。https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index
_maedamasana1.pdf
 

1)伊集院兼盛(鹿児島)建白 鹿児島県令宛 士族牧羊ノ件 明治17年7月14日 269
2)口之永良部島(鹿児島県)牧羊予算書 明治15年 285
3)鹿児島県大隅国駅謨郡口ノ永良部島牧羊日誌 明治17年9月 269

前田正名は、
薩摩出身、明治期に、大蔵省・農商務省などで殖産・興業に力を注ぐ。山梨県知事、貴族院議員として活躍した。
1888
明治21
◆青年の「夜学舎」が開校p998
◆「夜学舎」は、明治21年、19歳で鹿児島から着任した小学校教員・竹崎真之介が自宅を開放して開校した。竹崎は後に区長になる。また、刀圭(医術)の術も巧みで島民に恩恵をもたらした。功績を顕彰する碑が小学校の跡地に建立されている。大正13年建立。<紀徳碑・碑文>
◆竹崎真之介は医者を兼ねた。<安山:島の歴史(3)>p36
◆「夜学舎」では、16歳から27歳までの青年が、読書、算術、作文、習字を学ぶ。<金岳小100周年>
 
1889
明治22
◆「牧羊社」が解散。<安山:島の歴史(3)>p30  
1900
明治33
◆薬丸猪八郎が上屋久村の村長に(大正5年まで)。p362  
  ◆郵便船
初期には、有馬善浄氏が、その後、大塚秀義氏が一湊まで伝馬船で運航。数人が乗り込み櫓をこいだ。朝4時ころ出港、午後3時ころ着。帰りは、翌朝4時ころに出港した。
大正に入ると、船も大きくなり、櫓からエンジン付きに変わった。郵便船と人びとは呼んでいた。
昭和に入って、日高末右衛門、日高勘蔵氏などが運航。栄進丸(60トン)が就航し、口永良部島と鹿児島を結ぶ定期船となった。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p17-18>1980年
 
1916
大正5
◆湯向温泉の温泉小屋は、大正5年、西氏が主となり作った。<安山:島の歴史(3)>p42  
1948
昭和23
◆湯向分校開校。
久木山慶蔵さんを中心に、設置の運動をした。登校拒否まで行った。<根岸:南の島>
 
1949
昭和24
◆戦後、議員を3名出す。密輸基地として儲けた人もいたが一時のことだった。<堅山:屋久島>
 
柴 昌範 翁




各記述の末尾に、出典の記載がないのは「屋久島聖-聖柴 昌範の生涯」です。
年 次 内 容     備 考
 1956~57
昭和31~32
恵命我神散を創薬し(株)恵命堂を起こした柴 昌範さんが、来島し、区長だった種子永 進氏にガジュツ栽培を薦めた。<屋久島聖-柴 昌範の生涯-> <注>柴 昌範さんは、当時、すでに66才~67才だった。
また、ガジュツは、口永良部島に自生していた。
1960
昭和35
◆柴 昌範さんが、恵命我神散の原料、ガジュツの乾燥工場を建設。
◆恵命堂社長・柴昌範氏
金岳中学校のピアノ購入のために2万円を寄付。
金峰神社拝殿改築のために5万円を寄付。<区長寄付リスト>
◆区長だった種子永 進氏の記録によると、
柴 昌範さんは、昭和54年までの20年間に、総額1億2500万円以上を口永良部島・島民のために寄付した。<屋久島聖人p166>
<注>1981年(昭和56年)翁の口永良部島への貢献を顕彰する碑が建設された。
1961
昭和36
◆恵命堂・乾燥工場を建築.
1988年(昭和63年)まで操業。<要覧くちえらぶ>
◆恵命堂社長、柴昌範氏が来島。ガジュツ栽培を奨励。畜産も盛んに。<竪山:生活誌>
◆ガジュツ栽培が始まる。
調査の48年当時はどの村でも栽培。<屋久高:報告>
 
1963
昭和38
◆恵命堂社長・柴昌範氏
道路舗装のために2万円を寄付。<区長寄付リスト>
 
1964
昭和39
◆恵命堂社長・柴昌範氏、
金岳神社鳥居を奉納(20万円)
道路舗装のために5万円を寄付。
敬老会への寄付が、5年間に42万円<区長寄付リスト>
◆種子永区長の寄付リスト
動力ポンプ地元負担金、学校放送設備、一般用テレビ協聴施設、街灯、駐在所の敷地、建設費、備品、発電所新設、電気事業への継続補助など。
昭和54年までの20年間に、総額1億2500万円。
1967
昭和42
◆入学児童5名となり、1・2年生は複式学級。
各戸1坪分のガジュツ売上を学校に寄付。<金岳小100周年>
◆デンプン工場、操業停止<要覧くちえらぶ>
善意の放送設備
「新村、前田、本村2ヵ所に放送設備が完成。恵命堂社長の柴昌模範氏が32万円を寄付して完成した。」<広報かみやく縮刷り版p7>
1969
昭和44
◆24時間送電開始<要覧くちえらぶ>
◆感謝される恵命堂・島の文化を支える
「8時間配電の生活を強いられていたが、火力発電増設工事が完成し、24時間送電が始まった。44年度総費用600万円と予想されているが、電気料金の収入は10パーセント、不足額540万円は、恵命堂社長の柴昌模範氏が援助する」<広報かみやく縮刷り版p104>
島の悪路改装へ
「恵命堂社長の柴昌模範氏は、多額の浄財を投じておられる。発電事業の補助、道路の補修、放送施設、その他の公共施設への寄付など、昭和37年以来、総額は約3000万円の巨額に達している。氏の寄付により、中学校に通じる道路約200メートルが舗装され、島民に感謝されている」<広報かみやく縮刷り版p105>
1971
昭和46
◆口永良部島発電所・3号発電機の火入れ式、柴社長が寄贈<公民館・沿革史>
◆柴社長の寄付により、本村地区の道路舗装<要覧くちえらぶ>
本村海岸通線を舗装「岸壁から280メートルが、恵命堂社長の柴昌模範氏の寄付で舗装された」<広報かみやく縮刷り版p185>
 
1976
昭和51
◆ガゼツ生産同好会発足<公民館・沿革史>  
1978
昭和53
◆島で初の公民館長会議
「町からは町長ら7名、各部落から9人が参加。和牛とガジュツづくりが盛んですが、高齢化のため、生産が伸び悩んでいる。ガジュツ生産者同好会を組織し、栽培面積の拡大や機械化を目指している。大形機械の導入や、子牛の舎飼資金の助成、農道・農地整備にも力を入れて欲しいなど要望が出され、山口町長らは、問題解決に積極的に取り組むと約束した」<広報かみやく縮刷り版p560>
 
昭和56 ◆恵命我神散を企業化した柴昌範翁の口永良部島への貢献を顕彰する碑が建設された。顕彰碑は、公民館正面玄関の横にある。

<注>島の古老は、柴昌範翁は島の恩人と今でも涙を流す。

「生活誌-屋久島(口永良部島)に生きて」(1984)の著者の竪山 初さんが恵命堂に送った礼状が残っている。
1988
昭和63
◆恵命堂ガジュツ工場が撤退<要覧くちえらぶ>  
1989
昭和64
平成元年
◆ガジュツ生産組合解散  
1989
平成25
◆ガジュツ生産を再開
口永良部島活性事業組合が、(株)恵命堂と契約しガジュツ生産を再開した。