口永良部島の歴史、特に「永吉島津家」の最後の当主である「島津又七」にかかわる新発見が相次いでいます。
文献を丹念に調べ、新発見を掘り起こしたのは、口永良部島の出身者である「野元新市」さんです。 永吉島津家のご子孫による記録があれば確かなのですが、ご一族の所在が分からず、訊ねようがありません。
新発見のリスト
(1)島津又七の写真が見つかった。 野元論文 その1
(2)第一回の鹿児島市長選に立候補していた。 野元論文 その2
(3)硫黄採掘の古文書から、 野元論文 その3
島津又七が 、西南の役で西郷軍に弾薬(硫黄?)を供給していたことを官報から突き止めた。
硫黄採掘の土地借用が、明治4年の官報に記載されていたことを見つけた。
(4) 島津又七の沖縄銀行(第152国立銀行)への出資記録が見つかった。
「頭取だった」という伝承の記録は見つからなかった。 野元論文 その4
(5) 島津又七が「霧島神宮の宮司だった」との記載は多くの文献にあるが、確かな記録はなかった。 野元論文 その6
(6)口永良部島で牧羊をおこなった「牧羊社」の設立に、
島津又七が関わっていた記録が見つかった。 野元論文 その6
(7)島津又七の新たな側面が露になった。
早々と家督を長男に譲り、口永良部島で隠居大地主として悠々自適の暮らしに甘んじていただけではなく、
鹿児島を拠点として、活発な事業活動や市長選挙への出馬、西南の役へのかかわりなど、
野心的な側面が野元氏の調査で浮き彫りにされた。
(8)元禄絵図に、口永良部島の記載があることは、従来から分かっていたが、
「本行寺」と「永良部村」の書き込みが確認され。野元論文 その8
山麓に集落があり「元村」と称せられた・・・・伝承としてはあったが、確かな記録は新発見と云える。
本行寺も、法華宗の古い記録にはあったが、その場所が、元禄絵図に明記されていたことは特筆に値する。
(9) 島流しの途中に上陸した流人たちには、
「西郷隆盛」や「村田新八」以外にも、島津又七の義兄弟「名越左源太」がいたことが分かった。 野元論文 その9
(10)幕末には、湯向の温泉の存在が知られていた。
名越左源太の日記挿絵には、湯向と見られる所に、温泉があることが記載されている。鹿児島に在住していた名越が、正確にその場所を知っていたことは注目される。 野元論文 その9
(11)口永良部島に米軍が上陸
昭和20年6月に、米軍が口永良部島に上陸した・・・・・ことが、日本軍の機密文書にある。
同時に、馬毛島にも上陸し、両島での飛行場建設の可否を検討したことが記されている。