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「口永良部島ポータルサイト」で離島活性化。

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〒891-4208屋久島町口永良部島1232-3

 口永良部島 集落の歴史先達 の紹介  


口永良部島の集落の歴史と、島にかかわった先達の紹介です
ポータルサイトの「歴史年表」から、それぞれの記述を集めました。

著者によっては、年代や記述が矛盾するところがあります。そのままに記載しておりますので、ご注意ください。
ご縁のある皆さんからの情報情報提供をお待ちします。この頁に掲載させていただきます。 



 集落の歴史





ここでは、口永良部島の「歴史年表」のなかから関連する項目を選びました。
出典は各記述の末尾に示しました。頁数しかないのは「上屋久町町誌」です。

本村    集落の様子
本村   本村の場合は、ポータルサイトの「歴史年表」そのものが、本村集落の歴史になります。
近代の記述は「歴史年表」をご覧ください。

本村 縄文時代 ◆本村宮迫遺跡(金峰神社付近)寒ノ神式土器を確認。他には、種子島で確認。8000~9000年以上前に人が生活していたことが裏付けられた。<町・鹿大:埋蔵調査>
◆埼玉大学三友國五郎氏による口永良部島の発掘調査着手(1953年)。p94~
元村

本村
平安時代末期 ◆平家の落人が居住したと云われるのが、元村か本村かは、はっきりしない。天保の噴火(天保12年1841年)により、住民は、元村から本村に移住した。<安山:島の歴史(2)>p17
◆金坂(きんがさこ)には、平家が軍用金を埋めたとの言伝えがある。<川越:文化史>
◆平家落人の伝承は、屋久島、口永良部島で聞かれる。史料には見られない。伝承の一つとして位置付けたい。p181,182
元村

本村
天保年間 <永 里岡「口永良部島の地名考」>p9-10
本村は天保12年6月15日の噴火後に、今の場所へ集団で移住した集落であることが、文献・言い伝え・その他によって確認されている。噴火に関連した古い文献は、この天保年間の一例だけであるが、文献からは噴火の都度、人びとは安全な場所を求めて、集団で移住することが天災に対処するのに、唯一の方法であったことを読み取ることができる。
天保の噴火前は元村、噴火後は本村と頭文字は変わったが、本と元は同義で、はじまり・おこり・むかし・・・・の意味だから、元村・本村は、いずれも島古来の村に由来する字名である。
元村

本村
1841
天保12
◆天保の噴火
5月23日 噴火:新岳、大爆発。同年8月1日 噴火:元村が全焼、死者1名(老女)。本村へ全戸移転。p705
◆天保の噴火により、元村から本村に移住した。その頃の家は、茅葺、壁は竹網代。行燈で生活。平家の落人が居住したと云われるのが、元村か本村かは、はっきりしない。<安山:島の歴史(2)>p17
本村 1704
宝永年間
1704~1711
◆島に津口番所が置かれた。島津藩では25か所、「宝永上使御答書」。「列町制度」では、津口番所には鹿児島城下士が2人常駐。宝永5年の「監察使答抄」では、足軽3名づつ交替で勤めることとなっていた。p193
◆番所(バンドカ)は、藩政時代に密貿易をしたころの番所であるという。本村港の西の端に、番所跡、異人館跡と云われるところがある。慶應のころまで西洋館のあったところで、オランダ人が居住していた跡である。西洋館は、薩摩の密貿易船との交渉があった。<川越:文化史>
◆朝鮮船が屋久島口永良部島いぎすに漂着。<屋久郷土誌>
本村 1885
明治18
島嶼見聞録(明治20年出版)
地租改正のための調査報告書。口永良部島、三島、トカラ列島など、12島を調査した。復命書は明治18年12月5日。
1村2部に分かれて461人が住む。高齢者多く、91歳男、80歳以上6人。向江浜に釣魚のため寄留者14戸68人(男43人、女25人)。
本島も平族が潜伏したところで、日高、渡邊は末裔と云う。土人の口碑によると、都から来島の家には、公家から拝領の金杯、福山からの家には繁栄を記した書類があったが天保12年の噴火で焼失。
男子は断髪多し。性質は穏やか、朴訥で、人に丁寧、礼儀を重んじる。言語、衣服などは鹿児島の奮時の面影あり。親愛の情に富み、協和の心に感心する。築造のときは各戸が拠金。死者が出ると米穀を持ち寄る。しかし、怠惰倦怠、忍耐力に乏しく、職業に勤勉でない。
枕崎より客魚する鰹漁船一隻に5円。上陸寄宿するものは3舛を出す。島には、鰹漁船4隻。鰹を売り、米に換え貯蓄して、破船に備える。女子は15で歯を染め、16で嫁ぐ。遺跡、地名、噴火、地質の記述あり。
山林の項目に樹木の本数あり。松1.8万、椎1.5万、椨1.3万、ガジュマル50、濱樫350、蝋燭200、マテ0.5万、島黒木0.2万、ヘハル?0.35万、赤熔0.4万、タラ0.3万、セガシ?0.25万、甘木0.15万、クサ木0.25万、椿1.5万、桜1万、雑木25.5万本。
耕作は男女で、好漁期には男は漁業。松魚(カツオ)にして一人年平均3000尾。島民所有の鰹船4艘、伝馬船5艘。硫黄が約15万斤、輸出、支邦人に売り2500円。綿羊397頭、白毛が約105貫を東京羅紗製造所に売り、約219円を得た。島民富者なし、又貧者なし。就学児24、不就学38、毎日出席平均17。馬96頭、牛5頭、イヌ12、ネコ78、ブタ44、羊387、鶏287。<島嶼見聞録>
見聞録の抜粋が、「鹿児島県諸島の実況」<屋久高:報告>
 本村 1886
明治19
◆本村:
2ヵ所に分かれ住む。96戸461名。2ヵ所がどこかは不明。
向江浜の住民は居留者として扱った。14戸66人。<安山:島の歴史(2)>p17 出典は「島嶼見聞録」か。

 本村 1916
大正5~
◆堅山 初さんによる島の生活記録
著者は当時75才、明治42年生(1909)。
大正五年小学校入学。石板と石筆。3年生ころ、ノートと鉛筆に。休み時間は、陣取り、輪回し、コマ回し。放課後は、子守り、馬の飼い葉切り。上級生になるとシイの実拾い。学校維持費や本人の貯金になった。学舎は旧・新が並列。2年間の補習科(高等小学校の前身)卒業後は、青年団に入団。夜学校があって勉強。剣道も習う。課外には縄ない、ノコギリの目立て、しめ縄つくり、テンゴ作りなど。青年訓練所で軍事教練が月4回。徴兵検査の旅費のために薪割も協同で。暮らしは、半農半漁。
本村には、カツオ船が2隻。枕崎の漁船も出入り、カツオ製造工場が海岸に林立。区費や青年団費は薪を供出。カライモは主食であり馬の飼料。砂糖製造工場が本村、向江浜、新村にあり。砂糖は、鹿児島の商店に販売を委託。肥料や日用品と交換。赤字であった。
硫黄会社の仕事も農繁期に休むと赤字清算書が来た。母は、昼は麦つき、夜は粉ひきなど重労働。サトウキビは4月植えつけ、3月ころから砂糖製造。必要な人数は、絞るのに3人、製造に5人、の計8名。
主食は、カライモと麦飯。米飯は、正月と祝い事、葬式。年頃の娘は、内地の紡績工場へ。家つくりや材木取り、運搬、屋根ふき、砂糖製造などは、「ユイ」で。馬が牛に代わるまでは馬を放牧して繁殖。
昭和初期、硫黄会社の運搬船、栄進丸が月3回鹿児島へ。当時は全島が区有林。「男立(おったて)奉公」2日間、道路補修や清掃。「無情講」葬儀の際、米一合を出し合って助け合った。<堅山:屋久島>
 本村 1919
大正8
川島元次郎「南国史話」、大正15年刊、p329、挿図の川上久良氏の記録では、
大正8年、人口1454人、戸数:本村125、向江浜71、新村19、岩屋泊12、湯向12、田代6、西湯1戸。産物は硫黄、黒砂糖、女竹など。牛馬おおよそ500頭、新岳山麓に無数のシカ生息す。温泉3ヵ所、湯向などは、夏季に屋久島や種子島からの浴客多数。古老や元船員(藩の貿易船)によると、55年前後さかのぼる頃(1864年)、英人が居住、藩との間の密貿易所(白糖方と称す)があったと云う。密貿易が発覚して獄死した銭屋五兵衛の一件の後、藩は密貿易所を解体(この件については、銭屋事件とは無関係との説がある)。当時、遺物がないか探索したが得るものがなかった。<川上久良氏の記録>
 本村 1989
昭和64
平成元年
◆文化財埋蔵調査報告書が刊行。
本村宮迫遺跡(金峰神社付近)寒ノ神式土器を確認。種子島だけに確認。8000~9000年以上前に人が生活していたことが裏付けられた。<町・鹿大:埋蔵報告>調査は、昭和62年~63年
     
新村    集落の様子
 新村 1869
明治2
◆日置永吉郷の領主であった島津又七が明治2年に移住。島全体を藩主から譲られた。
その後、又七は、明治18年地租改正の折に、税金対策のために、必要なところを選んだ。火山から、硫黄を採掘した。また、湯向の「口永良部島牧羊社」に参加した。<安山:島の歴史(3)>p30
1871
明治4
◆廃藩置県、藩政がこの時期まで続いた。P287、p290
◆明治4年、島津又七が山頂付近を借地し、採掘を始めた。この事業は明治20年ころまで続いた。<屋久高:報告>
 新村 1872
明治5
◆日置郡永吉の領主、島津又七が新村に入植。<安山:島の歴史(3)>p29
◆島津又七が11人を率いて入植。11人は又七の家来ではない。一般募集か命令かは不明。谷山から農民の大穂、野元。国分から矢野など11人。又七は、11人には農業を営ませ、使役を課し、羊を導入、赤牛で材木を搬出させた。
農地、牧場の他に、硫黄鉱山も所有した。これらは、後年他人の手に渡った。
明治維新後にもかかわらず、又七は封建的な支配をした。鹿児島県の田舎では珍しいことではない。又七は、明治44年没。一族は鹿児島から連れてきた使用人に資産を売り払い、内地に引きあげた。<安山:島の歴史(3)>p29,30
◆新村
野元、大穂は谷山から、矢野は国分から又七とともに入植。坂口は宮崎県出身で、又七に伴われてきたのではない。他に、鎌田、大塚がある。鎌田は婚姻により余所から入った。大塚は元来、本村である。<安山:島の歴史(3)>p30
 新村 1872
明治5
<永 里岡「口永良部島の地名考」>p10
明治5年に旧藩時代の永吉(日置郡)の城主だった島津又七が、国分・谷山方向から連れて来た人たちによって、開拓された士族集落である。本村以外の集落は、明治維新後に成立している。
新村は、新天地に誕生した、新しい村の意味に因んだ字名である。
 新村 1892
明治25
◆椎の実で貯金始める(終戦ころまで続いた)。通学区が、新村、向江浜にも広がる。<金岳小100周年>
 新村 1919
大正8
川島元次郎「南国史話」、大正15年刊、p329、挿図の川上久良氏の記録では、
大正8年、人口1454人、戸数:本村125、向江浜71、新村19、岩屋泊12、湯向12、田代6、西湯1戸。<川上久良氏の記録>
 新村 1968年
昭和43
◆新村100周年
昭和43年(1968)南日本新聞は、「口永良部の新村部落誕生百年に誓う」と題して、3月で百年を迎えた口永良部新村部落は、この程一足早い(明治百年)の祝いをしたと報じ、古老たちの思い出や島の歴史を次のように伝えている。<吹上(中)>p283

「この部落は明治元年三月、初代の代官島津又七の来島にはじまる。当時、大政奉還の恩賞として、藩制の頃盛んだった薩藩とイギリス密貿易基地・口永良部島を又七がもらい、七人の家来をつれて来島、新村一帯の山林と新岳・古岳一帯の開拓がはじまった。古老の話によると入植者は六ケ月間、又七代官より成人男子に米1斗2升〈18キロ〉、成人女子に八升(12キロ)、さらに子どもにも一定割合で米が配られ、耕地が与えられた。その代償として又七代官の土地の耕作を引き受ける仕組みで、大正13年まで続いた。
大正13年二代目久徴代官が東京に引きあげる時、三十ヘクタールの耕地を20戸に払い下げた。だが、1万円の支払いに苦労、結局5年かかってサトウキビ製糖で得た金をつぎ込み完納したと云う」<吹上(中)>p283

 新村 1973年
昭和48
◆新村
明治5年、廃藩で崩壊した島津一門の一族、島津又七が率いる11名が入植し開村された。現在、12世帯。<屋久高:報告>
 新村 1992
平成4
◆新村開村120周年記念碑
除幕式と祝賀会
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村134人(71世帯)、新村8(4)、湯向24(12)、田代8(4)、前田16(9)、向江浜3(2)
     
前田    集落の様子
前田
1935
昭和10
◆前田
昭和10年に、向江浜を襲った山津波で被害を受けた人たちが、ここに移住して開いた集落である。
前田は、昭和時代に誕生した、第一号の集落である。前田の前は、ここでは以前の意味。田は田畑の略ではなく所を意味するから、前田は前に何かと関連のあった所である。すなわち、天保12年の大噴火の前は、ここに村(元村)あった所を意味する字名である。
前田
1935
昭和10
◆前田:
向江浜の住民は、上屋久村の斡旋で、前田に代替え地を得て、昭和10年に移転した。当時の前田は、人家はなく耕地だった。<屋久高:報告>
◆豪雨により山津波を起こし、向江浜部落は、死者5名、家屋の被害多し。<金岳小100周年>
<注>山津波(土石流)は、安山氏によると昭和9年と記載されているが、他は昭和10年として混乱がある。
◆向江浜部落の移転先に横井手字が候補になるが、地主が承諾せず、前田字に決定<公民館・沿革史>
前田 1973年
昭和48
前田
前田の東部山手に元村があった。天保の噴火による出火で全焼。本村に移住したと伝えられる。跡地には墓石、城跡がある。昭和10年の山津波により、向江浜から前田に移住したのがほとんどで、最盛期は80世帯になったこともあると云う。現在、前田は11世帯、33人。<屋久高:報告>1973年
     
向江浜    集落の様子
向江浜     <永 里岡「口永良部島の地名考」>p10-11
明治維新前後までは、浜小屋(はまんこや)と呼んでいた。浜小屋は島の近海が漁期になると、枕崎方面から漁師たちが渡って来て、漁期が終わるまで、小屋掛の仮り住いに因んだ呼びかたである。
向江浜と呼ぶようになったのは明治18年以降である。この年に枕崎・坊方面の漁師たちが、家族同伴で来島して開いた淋しい漁村であったが、後半は硫黄会社と共に栄えた集落である。だから硫黄会社の経営が不調に陥ち入った途端、集落から活気が時間と共に薄れて行った。そこへ追い討ちをかけたのが、昭和10年4月の山津波の襲来であった。
向江浜は、本村の向う側(東寄り)にある・・・・・を意味する。
また、向江浜は迎浜(むかえはま)で、安徳天皇を迎えた浜に由来する・・・・の説は、方言に当てた佳好字に付随した、語り草に過ぎない。
向江浜 幕末 ◆幕末
半農半漁、カツオ漁期には、漁業に専念。坊泊、鹿篭、枕崎、内之浦から餌取船を伴った20人乗り以上のカツオ漁船が来航。エサ雑魚不足のため、21隻に免許を与えて制限。1隻につき礼銀1枚を納めさせた。出典:鹿児島県史第2巻。<屋久高:報告>
◆硫黄採掘
文久・元治の頃から採掘が始まった。3年間は採掘量も多かったが品質低下。明治初めには中止されていたが、島津又七が再開。明治20年頃まで続いた。大正、昭和に、硫黄採掘が本格化。<屋久高:報告>
向江浜 1876
明治9
◆明治9年、枕崎の漁民らは、トカラでの漁を求めて、「南方諸浦人、鹿籠諸浦ヨリ口之島、臥蛇島ヘ係ル嘆願書」を県議会に提出されている。その内容から、幕末の頃はすでに枕崎はトカラ諸島近海を漁場としていたことが推察される。<枕崎市誌、上巻p553>
<注>当然、口永良部島の近海での漁もあったと考えられる。
向江浜  1885
明治18
◆向江浜
明治18年以後、鹿児島本土から硫黄採掘に来てそのまま居住し、昭和6年からの噴火と昭和10年の山津波などで、過半数が前田に移住した。<安山:島の歴史(2)>p23
◆向江浜
「鹿児島県諸島の実況」によると、明治18年に漁民で寄留する14戸があり、人口が68人(男43人、女25人)。明治45年に大火があり40余戸が焼失した。大正、昭和になると、硫黄採掘が本格化し、鉱山町に変貌した。硫黄採掘は幕末にさかのぼる。<屋久高:報告>
向江浜 1885
明治18
◆向江浜
明治18年頃から硫黄採掘で来島した人々が定住し村ができた。カツオ漁が盛んになると鰹節製造が始まった。昭和10年の山津波によりほとんどが前田に移住。48年現在、8世帯、14人。<屋久高:報告 1973年 >
向江浜 1892
明治25
◆椎の実で貯金始める(終戦ころまで続いた)。通学区が、新村、向江浜にも広がる。<金岳小100周年>
向江浜 1899
明治32
◆枕崎の、明治32年生まれの幸内船頭の回想(昭和54年記事)によると、枕崎のイデゴヤが何軒かあった。島で処理したかつお節は「島イデ」と呼ばれた。大正末近くまで続いた。<枕崎市誌、上巻p612>、記載は<枕崎市史、p708>にもあり。
◆遠洋でカツオが獲れても鮮度が落ちる。それを防ぐために、明治中期には、沖イデをしたが、地イデに及ばず。そこで、口永良部島、黒島、中之島辺りに前進基地を設け製造(島イデ)を始めた。<枕崎市誌、上巻p610>
◆向江浜には18件の製造工場があった。<枕崎市史>
向江浜 1912
明治45
大正元年
◆硫黄
大正元年頃、硫黄は、大阪鉱業(株)、向江浜集落は、70軒以上。硫黄採取、運搬、製造、薪切り、梱包、運搬船など分業あり。<堅山:屋久島>
◆向江浜の大火
鰹節製造の小屋が失火、向江浜部落40余戸焼失。<金岳小100周年>
向江浜 1919
大正8
川島元次郎「南国史話」、大正15年刊、p329、挿図の川上久良氏の記録では、
大正8年、人口1454人、戸数:本村125、向江浜71、新村19、岩屋泊12、湯向12、田代6、西湯1戸。<川上久良氏の記録>
向江浜 1931
昭和6
◆3月から鳴動。4月2日に爆発(新岳の西側山腹)。4月15日、5月15日にも爆発、降灰。
向江浜を泥流が襲い民家6棟が倒壊、負傷者が数名。p706
 向江浜 1934
昭和9
◆昭和9年1月爆発。七釜地区、壊滅。P706
◆七釜は消滅したが、向江浜側での硫黄の採掘・製造は、昭和18年ころまで続いた。<屋久高:報告>
◆向江浜:
4月、大洪水、山津波、地滑りを起こし、部落のほとんどが、浸水、家屋流失7棟、死者5名を出した。<安山:島の歴史(2)>p23 
向江浜 1935
昭和10
◆豪雨により山津波を起こし、向江浜部落は、死者5名、家屋の被害多し。<金岳小100周年>
<注>山津波(土石流)は、安山氏によると昭和9年と記載されているが、他は昭和10年として混乱がある。
◆向江浜部落の移転先に横井手字が候補になるが、地主が承諾せず、前田字に決定<公民館・沿革史>
向江浜 1943
昭和18
◆向江浜の硫黄製造は昭和18年ごろまで続いた。戦後試験的な操業もあったが、操業は再開されなかった。<屋久高:報告>
向江浜 ◆戦時中
番屋が峯に、陸海軍の監視所があった。海軍は頂上に、陸軍は少し下。合計約20名が駐留。
向江浜に警防派出所があった。<屋久高:報告>
     ◆向江浜でウミヘビ
自噴する温泉の近くでウミヘビがとれた。加工して本村から出荷していた。湯向Yさんの父親Nさんの時代。<2015年、湯向Yさんの話>


             ウミヘビ写真提供は大久保政英氏





向江浜 1962
昭和37
◆第4種漁港完成<町40周年>
◆昭和26年~昭和34年まで漁港改修工事で、向江浜は活気があった。<屋久高:報告>
向江浜 1973年
昭和48
◆向江浜
明治18年頃から硫黄採掘で来島した人々が定住し村ができた。カツオ漁が盛んになると鰹節製造が始まった。昭和10年の山津波によりほとんどが前田に移住。48年現在、8世帯、14人。
<屋久高:報告>1973年 に屋久高が調査
     
岩屋泊    集落の様子
 岩屋泊 1887
明治20
<永 里岡「口永良部島の地名考」>p13-14
明治末期に喜界島から移住した人たちが開いた集落である。岩屋泊を開いた人たちが残した手形は、まず明治維新以後途絶えていた、この島の製糖業を復活させたことである。次に機織の技術を向上させたこと・・・・・等である。しかし、岩屋泊が活気に満ちた時代は、やはり第一次世界大戦時の戦争景気だけであった。その後は、退潮現象に対処する術もないままに、その日暮らしに甘んじていた。昭和13年にここを訪れた奄美出身で、当時熊毛支庁長だった谷村秀綱氏が、集落民を前にして話した要旨は、次の通りである。
皆さんと殖産等について、篤と意見を交わす予定だったが、もうその必要はない。
子どもがかわいそうだから、条件のいい場所へ移転しなさい。また現実の窮乏から脱出するにも、道は移転するしかない旨を切々と述べられた。
支庁長の訓示後、部落民は屋久島・種子島・・・・へ移転を始めた。岩屋泊まりから人影が完全に消えたのは、昭和29年ごろである。
いまここを訪ねてみると、当時山路同然であった通学路は、舗装されて避難道路になっている。
また住民たちがへばりついていた、ネコの額ほどしかなかった畑地の跡は、放牧牛の憩いの場になっている。
集落跡の目印には、防風用に餓えられたらしいガジュマルの老樹と、住居跡を示す石垣が残っているだけである。
岩屋泊まりは、コウモリ洞窟の別称で、寝泊まりが可能な洞窟に因んだ字名である。
 岩屋泊 1887
明治20
◆岩屋泊
明治20年頃、喜界島からの移住者で形成された。姓は、備、秋田、藤、名嘉、平田、基など。最盛期20余戸、100人。昭和5年に大火で16戸の内9戸が焼失し、以後の村人の離村のきっかけとなった。戦後、最後まで残ったのは2家族。屋久島の長久保に移転した。そのうちの一人は基万次郎。昭和30年頃に無人化した。<屋久高:報告>
◆上記に「そのうちの一人は基万次郎」との記述がありますが「万太郎」の誤りではないかと、ご指摘がありました。<永久保の縁者の方から、2015年>
◆口永良部島が、倭寇の根拠地になっていたことはありうること。口碑によれば岩屋泊が倭寇の本拠であったという。<川越:文化史>
◆明治20年、川辺郡沿海各村鰹漁業連合組合規約があり、漁場とし「口永良部島近海」との記述がある。<枕崎市誌、上巻p560 >
島嶼見聞録の出版
<注>明治18年を参照。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766686/6
岩屋泊 1919
大正8
川島元次郎「南国史話」、大正15年刊、p329、挿図の川上久良氏の記録では、
大正8年、人口1454人、戸数:本村125、向江浜71、新村19、岩屋泊12、湯向12、田代6、西湯1戸。<川上久良氏の記録>
岩屋泊 1925
大正14
◆永井亀彦「南島日記」によると、
硫黄島から口永良部島へ
汽笛でハシケを呼び寄せ下船。岳経由で湯向へ。岩屋泊を訪ねる。栄進丸で帰途に。<永井:南島日記>
◆岩屋泊
20年前に喜界島荒木から26戸で入植。動機は、官林を払下げてもらい開墾すること。山林は、鹿児島の業者に。目的が外れたと聞く。<永井:南島日記>
 岩屋泊 1930
昭和5
◆岩屋泊で大火。16戸中、9戸が焼失。<金岳小100周年>
 岩屋泊
1973年
昭和48
岩屋泊
倭寇の伝説がある。昭和29年(1954年)廃村。
<屋久高:報告>1973年
     
 田代    集落の様子
 田代 1904
明治37
◆田代
加世田から山師としてきた人によって形成。山口姓の系譜の人で七釜にショウノウを製造するエキス工場を持っていた。明治20年との説もある。昭和24、25年に開拓団が組織され入植者が加わった。<屋久高:報告>
田代6 1919
大正8
川島元次郎「南国史話」、大正15年刊、p329、挿図の川上久良氏の記録では、
大正8年、人口1454人、戸数:本村125、向江浜71、新村19、岩屋泊12、湯向12、田代6、西湯1戸。<川上久良氏の記録>
田代
開拓団
<屋久高:報告>
◆田代
昭和24年~25年頃、11戸で開拓団が組織された。戦前からの居住、戦時中の黒島からの移住、本村からの入植の組み合わせ。3町歩が配分された。昭和40年代に離村。調査時、昭和48年の居住者の姓は山口、日高(戦時中の黒島からの移住、平家の流れ)、羽生、加世田は、本村からの入植。<屋久高:報告>
田代
1973年
昭和48
◆田代
明治20年頃に入植があり、昭和になって黒島や開拓団の入植も加わった。現在、数人の生徒と老人の部落である。<屋久高:報告>1973年
     
 寝待    集落の様子
 寝待 1926
大正15
昭和元年
◆寝待温泉の落成記念碑によると、大正15年に9月6日。横9間、奥行き7間、竹屋根の小屋で、本村区が造った。<安山:島の歴史(3)>p43
 寝待 1957
昭和32
◆湯向、永迫、白辻、寝待に入植者入る<公民館・沿革史>
 寝待 1986
昭和61
◆寝待歩道完成<要覧くちえらぶ>
 寝待 2000
平成12
◆寝待線開通
 寝待 2002
平成14
◆寝待温泉、施設新築
 湯向    集落の様子
 湯向 縄文、弥生 ◆湯向南方の、城之平(じょんでら)遺跡から御領式、市来式土器出土。湯向の、平家の城では、市来式土器が主体で出土、御領式土器が伴出。富田原遺跡では、縄文、弥生の遺跡が重複。
◆城之平には市来式文化の時代に、一湊から植民、御領式文化を取り入れる頃まで生活し、噴火で退去と報告。p97
 湯向  1883
明治16
◆馬毛島での牧羊の成功を見て、伊集院らが口永良部島に牧場を開いた。明治16年設立、22年には抵当公売処分。<安山:島の歴史(3)>p30
◆士族授産事業の一環として、伊集院兼盛以下士族43名で「口永良部島牧羊社」が設立された。設立者は現業に参加せず。飼育主任は薬丸猪八郎、代表は有馬純行。又七も経営に参加した。下総より綿羊175頭を導入。牧場は島の東北部400町歩の原野。明治18年度には東京千住製繊所に羊毛を販売。薬丸は安房にも原野貸下を申請した。明治22年、「牧羊社」解散。その後、薬丸は、伊藤と共に区の運営などに関わるが、資産を売り払い、戦前内地に引き上げた。<屋久高:報告>出典:県史第4巻p322、「鹿児島県畜産史、中巻」大正2年刊。
◆湯向には、
士族の薬丸猪八郎、伊藤甚熊が住み、帯刀していた。明治31年に諏訪瀬島から移住の畠、原口、西、久木山らを支配した。その勢力は本村にも及んだ。<安山:島の歴史(2)>p24
◆牧羊は島津又七の経営で、明治37年頃まで飼育が続いた。<安山:島の歴史(2)>p24
◆ 薬丸猪八郎は、明治33年に上屋久村の村長に。p362
村長を5期続けた後、本村区長を勤め、竹崎真之介とともに区のために尽くした。<安山:島の歴史(2)>p24
◆その後
伊藤一族は、畠正助に財産を40円で売却し島を出た。島津又七一族は、自らが連れてきた使用人に財産を売り引き上げた。<安山:島の歴史(2)>p25,p26、<安山:島の歴史(3)>p33
新村の人たちは、又七の土地を1戸当たり700円で入手、5年かかって支払った。<安山:島の歴史(3)>p30
◆朝鮮の船が漂着、船員6名を救助。<安山:島の歴史(2)>p21
     
 湯向 1898
明治31
◆湯向
大島郡諏訪瀬島の東条喜曽志(きそし)を代表とし、明治31年、口永良部区と契約し、11戸が湯向に移住した。富田原に11カ所、11町8反の開墾に着手。<安山:島の歴史(2)>p24
◆湯向:
奄美大島笠利町の東条喜曽志(きそし)が10数名と移住。帆船で牛と豚を持ち込んだ。西、久木山、山田の姓は、大島郡笠利町がルーツ。<根岸:南の島>出典:西村敬天記者「火の岳の下で」
◆諏訪之瀬島の記録<前川:諏訪之瀬島>
大島から諏訪瀬島への移住の記録に、久木山貞和志(明治22年移住)、山田宮積(明治17年移住、病で一旦帰り明治21年再移住)の名がある。それぞれの子孫が口永良部島の湯向に移住した。
東条喜曽志の名もしくは、東条の姓は、諏訪瀬島移住者リストには見当たらない。
◆湯向:
昭和48年の調査当時、湯向には、8戸、13人。姓は畠、久木山、山田、多嘉、前田、中井がある。<屋久高:報告>
 湯向
1916
大正5
◆湯向温泉の温泉小屋は、大正5年、西氏が主となり作った。<安山:島の歴史(3)>p42
湯向 1919
大正8
川島元次郎「南国史話」、大正15年刊、p329、挿図の川上久良氏の記録では、
大正8年、人口1454人、戸数:本村125、向江浜71、新村19、岩屋泊12、湯向12、田代6、西湯1戸。
温泉3ヵ所、湯向などは、夏季に屋久島や種子島からの浴客多数。<川上久良氏の記録>
湯向 
1925
大正14
◆湯向で大規模な山火事。<金岳小100周年>
◆永井亀彦「南島日記」によると、
硫黄島から口永良部島へ
汽笛でハシケを呼び寄せ下船。岳経由で湯向へ。岩屋泊を訪ねる。栄進丸で帰途に。<永井:南島日記>
 湯向 1930
昭和5
◆湯向児童合宿所ができる。<安山:島の歴史(3)>p38
 湯向
1934
昭和9
◆湯向児童寄宿舎が落成。<安山:島の歴史(3)>p38
 湯向 1948
昭和23
◆湯向分校開校。
久木山慶蔵さんを中心に、設置の運動をした。登校拒否まで行った。<根岸:南の島>
 湯向 1949
昭和24
◆湯向分校開校
 湯向 1953
昭和28
◆埼玉大学の三友國五郎氏らが、口永良部島の発掘調査着手(1953年)。p94~
湯向南方の、城之平遺跡から御領式、市来式土器出土。湯向の、平家の城では、市来式土器が主体で出土、御領式土器が伴出。富田原遺跡では、縄文、弥生の遺跡が重複。
城之平には市来式文化の時代に、一湊から植民、御領式文化を取り入れる頃まで生活し、噴火で退去と報告。P97
 湯向 1957
昭和32
◆湯向、永迫、白辻、寝待に入植者入る<公民館・沿革史>
 湯向 1959
昭和34
◆湯向の青年学級は、昭和34年に鶴丸高校通信教育グループと認められた。2名の卒業生を出した。
また、大学入学資格検定で、全科合格者も出した。<安山、島の歴史(3)p40-41>
 湯向 1961
昭和36
◆湯向、本村間、幹線道路が開通。砂利道。舗装は1986年(昭和61年)。
湯向など入植者の離島始まる。昭和40年代初めに人口が激減。昭和44年、永迫解散。<根岸:南の島>
 湯向
2007
平成19
◆湯向区
7世帯、9名。
昭和39年には、35戸、140名が生活を営み金岳小学校・湯向分校もあった。<広報かみやく>湯向区長の執筆
 湯向 1969
昭和44
◆湯向分校が廃校<広報かみや縮刷版p85>
「分校設立は昭和24年。2年後には台風で校舎が倒壊。校区民が苦労して再建した。昭和34年には児童数が67人となった。その後、家族ぐるみの県外転出が始まり、人口・児童数の減少が続いた。昭和43年9月からは、畠喜人君一人となった。畠君は、通学が3時間もかかるので、中学生と一緒に寄宿舎で生活、本校で学習する」<広報かみや縮刷版p85>
 湯向 1972
昭和47
◆湯向へ配電開始<要覧くちえらぶ>
 湯向 1977
昭和52
◆湯向公民館、開設<町40周年>
湯向公民館が完成「9世帯14人の湯向地区に公民館が完成。町長も出席して落成式が行われた。館長の畠喜美彦さん(52)は、小さな部落に立派な公民館を造っていただきありがたい。末永く大切に、有意義に活用します。と喜びいっぱいだった」<広報かみやく縮刷り版p526>
 湯向   村上俊雄氏による遺跡分布調査
◆湯向地区で、弥生時代中期~後期の包括層を確認。p100
◆他地区にも、縄文、弥生遺跡あり(郷土誌に表あり)。p107
◆宮迫、新浦(三浦)、西ノ浜、下新道(住吉)、中野(黒瀬)、前田(金ケ迫)、平家の城(西ノ浦)遺跡がある。p110
◆古墳時代の出土品はない。須恵器の出土があるが、奈良、平安以降のもの。P115
 湯向 1982
昭和57
◆湯向港、部分改修着工。
 湯向 1985
昭和60
◆湯向温泉、この頃までは、茅葺(1988年新築)。<プレック>
◆本村・湯向間の、基幹農道が開通。<広報かみやく>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村181人(80世帯)、新村19(9)、湯向19(10)、田代12(4)、前田25(11)、向江浜9(3)
 湯向 1988
昭和63
◆湯向温泉場完成、役場出張所が落成
 永迫    集落の様子
 永迫 1948
昭和23
<永 里岡「口永良部島の地名考」>p16-17
昭和24年に海外からの引揚者達が開いた、開拓第一号の集落である。
永迫は開墾には適地であったが、交通が大変不便な場所であったし、その上物資が極度に不足していた時代でもあったから、彼らの苦労は筆舌には表現できないものがあった。
県から開拓視察に来島した役人たちが、宿舎で交わした所見では、入植者の中に共産党員が入っている事について、その是非が専らだったと、第三者から聞いたとき断腸の思いがしたのは、いまから38年前である。昭和36年ごろから、開拓団員が櫛の歯を欠くように離農して行ったのは、当事者に対するせめてもの抗議だったのではないかと思う。
永迫の永はながいの意味。迫は傾斜地すなわち坂の方言だから、永い(長い)坂に由来する。
以前、宮之浦の永迫旅館の先代に口永良部島の永迫との関係を質問した時、先代は次のように話した。
「あすこの浦は家の持舟であった観音丸が、潮掛かりするところであったことを各舟の船頭衆に知らせるために、永迫姓で呼ぶようにしたのだと言ったが、塩掛かり浦だったばかりでなく、両島間の連絡に狼火をあげる場所でもあった・・・・の印象が濃い。
永迫は昭和42年に、約20年間の開拓史に終止符をうって消滅した。
永迫
開拓団
<屋久高:報告>
◆永迫
昭和24年、15戸69人が開墾を開始。昭和27年には23戸に増加。昭和26年に開拓農協が認可された。開墾の実績が上がらず、一部を除き全面買戻しの話もあったが、事情勘案され昭和38年に売渡された。しかし、離村があり昭和39年には6戸しか残らず。昭和42年に解散。<屋久高:報告>
 永迫 1948
昭和23
◆沖縄、奄美出身の満州からの引き上げ者が入植。湯向130人、永迫44人、白辻28人、寝待20人。
◆永迫では、
昭和36年ごろから離村が始まった。昭和42年、43年には激減し、100人の人口があった永迫開拓地も1戸だけが残ったが、昭和44年には解散し、廃村になった。<根岸:南の島>
永迫 1957
昭和32
◆湯向、永迫、白辻、寝待に入植者入る<公民館・沿革史>
 永迫 1959
昭和34
◆送電区域
発電の出力が上がり、送電区域が拡げられた。各家庭への配電は夜間だけ。湯向、永迫、白辻への配電は、昭和47年。火力発電所は昭和56年。<根岸:南の島>
 永迫 1965
昭和40
◆永迫が閉村。<屋久高:報告>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村399人(113世帯)、新村79(20)、湯向48(17)、田代49(10)、前田100(28)、向江浜36(12)、永迫4(2)
永迫・城之平
1973年
昭和48
◆永迫・城之平ジョンデラ:
開拓団により開かれた。昭和42年、20年間の開拓の歴史に幕を下ろした。城之平は湯向城址、古い墓や寺跡あり。<屋久高:報告>1973年
白辻 集落の様子
白辻 1948
昭和23
◆沖縄、奄美出身の満州からの引き上げ者が入植。湯向130人、永迫44人、白辻28人、寝待20人。
白辻 1957
昭和32
◆湯向、永迫、白辻、寝待に入植者入る<公民館・沿革史>
白辻 1959
昭和34
◆送電
発電の出力が上がり、送電区域が拡げられた。各家庭への配電は夜間だけ。湯向、永迫、白辻への配電は、昭和47年。火力発電所は昭和56年。<根岸:南の島>
七釜 集落の様子
 七釜 明治末期 <永 里岡「口永良部島の地名考」>p14-15
明治末期に新設された硫黄精錬工場で働く人たち、すなわち鉱夫たちが開いた集落である。鉱山が全盛だったころは、戸数も40戸前後に達したという。
硫黄の原鉱は主に旧火口周辺で発掘した。その原鉱の運搬には牛馬を使用した。
また、製錬した硫黄も、牛馬で海岸の倉庫まで運んだというから、当時の運搬作業の主役は、牛馬だったことが解る。
七釜は向江浜と共に活気に満ちた集落だったのだが、昭和8年12月の大爆発で壊滅した。火山の爆発で壊滅した第一号は元村、第二号は七釜である。
七釜は硫黄精錬工場に据え付けた釜数が、向江浜工場の13期に対して、ここは7基だったことから、誰言うともなく七釜と呼ぶようになったらしい。
七釜は硫黄製錬工場の釜数に因んだ、新しい字名である。
七釜の古い呼称は砂ケ迫(すながさこ)である。砂ケ迫は旧火口斜面の砂礫地に因んだ地名である。
 七釜 1914
大正3
◆新岳、大量の硫黄を噴出。p705
◆大正3年には、大阪硫黄鉱業会社が農務省から火口付近600町歩の払い下げを受け硫黄採掘・製造を本格化した。七釜にも硫黄製造の飯場的な村ができたが、昭和8年の噴火によって消滅した。向江浜の硫黄製造は昭和18年ごろまで続いた。戦後試験的な操業もあったが、操業は再開されなかった。<屋久高:報告><安山:島の歴史(2)>p23
◆硫黄会社は、大阪の杉村さんが設立。島民も、硫黄の釜たき、牛馬を持っている人は、硫黄を運搬して現金収入を得た。その後、小原子八太さんが引き継いだ。このころ、向江浜は、上町(別府町)、前町、中町、後町に別れ、会社は、後町にあった。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p15>1980年
◆七釜
硫黄は、硫黄玉にして、牛馬で海岸まで運搬した。朝早くから、駄賃(牛馬での運搬の呼称)に行く人も多く、朝方、岳を登ってゆく姿が行列をなし、アリのように見えたと云う。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p15>1980年
 七釜 1933
昭和8
◆昭和8年12月24日に大爆発。降灰、降焼石で七釜集落全焼、焼死者8名、重傷8名、軽傷17名、家屋全焼36戸、牛13頭、馬2頭が死ぬ。山林耕地に大被害。P706
 七釜
1934
昭和9
◆昭和9年1月爆発。七釜地区、壊滅。P706
◆七釜は消滅したが、向江浜側での硫黄の採掘・製造は、昭和18年ころまで続いた。<屋久高:報告>
 七釜
1973年
昭和48
七釜
昭和8年~9年の噴火で部落は全滅。当時は40戸近くあり。
<屋久高:報告>1973年
     
     
人口・世帯数 1954
昭和29
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村944人(188世帯)、新村169(27)、湯向131(28)、田代76(13)、前田313(59)、向江浜215(53)、永迫102(20)、岩屋泊20(3)
人口・世帯数 1956
昭和31
◆昭和31年、前田、50戸、272人、向江浜、216人。<屋久高:報告>
人口・世帯数 1958
昭和33
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村906人(180世帯)、新村190(28)、湯向150(25)、田代68(11)、前田276(50)、向江浜223(51)、永迫64(15)
人口・世帯数 1970
昭和45
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村288人(99世帯)、新村38(14)、湯向14(7)、田代23(6)、前田47(16)、向江浜17(9)
人口・世帯数 1975
昭和50
◆エラブオオコウモリ、天然記念物に指定。p798
◆寝待温泉、改良工事完成<公民館・沿革史>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村207人(84世帯)、新村26(11)、湯向16(9)、田代15(5)、前田42(15)、向江浜11(7)
高齢者に無料乗船券「口永良部島に在住する70歳以上の高齢者に、太陽丸の無料乗船券を交付する条例が、新しく制定された。上屋久町では、バスの無料乗車券が支給されているが、島ではこのような恩恵が受けられなかったことから、要望があった」<広報かみやく縮刷り版p382>
人口・世帯数 1980
昭和55
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村172人(77世帯)、新村20(10)、湯向17(9)、田代11(4)、前田25(8)、向江浜9(4)
人口・世帯数 1992
平成4
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村134人(71世帯)、新村8(4)、湯向24(12)、田代8(4)、前田16(9)、向江浜3(2)
     



ここでは、口永良部島の「歴史年表」のなかから関連する項目を選んで記載した。


 口永良部島を 支えた人びと    




 柴 昌範 翁





各記述の末尾に、出典の記載がないのは「屋久島聖-聖柴 昌範の生涯」です。

年 次 内 容     備 考
 1956~57
昭和31~32
恵命我神散を創薬し(株)恵命堂を起こした柴 昌範さんが、来島し、区長だった種子永 進氏にガジュツ栽培を薦めた。<屋久島聖-柴 昌範の生涯-> <注>柴 昌範さんは、当時、すでに66才~67才だった。
また、ガジュツは、口永良部島に自生していた。
1960
昭和35
◆柴 昌範さんが、恵命我神散の原料、ガジュツの乾燥工場を建設。
◆恵命堂社長・柴昌範氏
金岳中学校のピアノ購入のために2万円を寄付。
金峰神社拝殿改築のために5万円を寄付。<区長寄付リスト>
◆区長だった種子永 進氏の記録によると、
柴 昌範さんは、昭和54年までの20年間に、総額1億2500万円以上を口永良部島・島民のために寄付した。<屋久島聖人p166>
<注>1981年(昭和56年)翁の口永良部島への貢献を顕彰する碑が建設された。
1961
昭和36
◆恵命堂・乾燥工場を建築.
1988年(昭和63年)まで操業。<要覧くちえらぶ>
◆恵命堂社長、柴昌範氏が来島。ガジュツ栽培を奨励。畜産も盛んに。<竪山:生活誌>
◆ガジュツ栽培が始まる。
調査の48年当時はどの村でも栽培。<屋久高:報告>
1963
昭和38
◆恵命堂社長・柴昌範氏
道路舗装のために2万円を寄付。<区長寄付リスト>
 
1964
昭和39
◆恵命堂社長・柴昌範氏、
金岳神社鳥居を奉納(20万円)
道路舗装のために5万円を寄付。
敬老会への寄付が、5年間に42万円<区長寄付リスト>
◆種子永区長の寄付リスト
動力ポンプ地元負担金、学校放送設備、一般用テレビ協聴施設、街灯、駐在所の敷地、建設費、備品、発電所新設、電気事業への継続補助など。
昭和54年までの20年間に、総額1億2500万円。
1967
昭和42
◆入学児童5名となり、1・2年生は複式学級。
各戸1坪分のガジュツ売上を学校に寄付。<金岳小100周年>
◆デンプン工場、操業停止<要覧くちえらぶ>
善意の放送設備
「新村、前田、本村2ヵ所に放送設備が完成。恵命堂社長の柴昌模範氏が32万円を寄付して完成した。」<広報かみやく縮刷り版p7>
1969
昭和44
◆24時間送電開始<要覧くちえらぶ>
◆感謝される恵命堂・島の文化を支える
「8時間配電の生活を強いられていたが、火力発電増設工事が完成し、24時間送電が始まった。44年度総費用600万円と予想されているが、電気料金の収入は10パーセント、不足額540万円は、恵命堂社長の柴昌模範氏が援助する」<広報かみやく縮刷り版p104>
島の悪路改装へ
「恵命堂社長の柴昌模範氏は、多額の浄財を投じておられる。発電事業の補助、道路の補修、放送施設、その他の公共施設への寄付など、昭和37年以来、総額は約3000万円の巨額に達している。氏の寄付により、中学校に通じる道路約200メートルが舗装され、島民に感謝されている」<広報かみやく縮刷り版p105>
1971
昭和46
◆口永良部島発電所・3号発電機の火入れ式、柴社長が寄贈<公民館・沿革史>
◆柴社長の寄付により、本村地区の道路舗装<要覧くちえらぶ>
本村海岸通線を舗装「岸壁から280メートルが、恵命堂社長の柴昌模範氏の寄付で舗装された」<広報かみやく縮刷り版p185>
1976
昭和51
◆ガゼツ生産同好会発足<公民館・沿革史>
1978
昭和53
◆島で初の公民館長会議
「町からは町長ら7名、各部落から9人が参加。和牛とガジュツづくりが盛んですが、高齢化のため、生産が伸び悩んでいる。ガジュツ生産者同好会を組織し、栽培面積の拡大や機械化を目指している。大形機械の導入や、子牛の舎飼資金の助成、農道・農地整備にも力を入れて欲しいなど要望が出され、山口町長らは、問題解決に積極的に取り組むと約束した」<広報かみやく縮刷り版p560>
昭和56 ◆恵命我神散を企業化した柴昌範翁の口永良部島への貢献を顕彰する碑が建設された。顕彰碑は、公民館正面玄関の横にある。



<注>島の古老は、柴昌範翁は島の恩人と今でも涙を流す。





「生活誌-屋久島(口永良部島)に生きて」(1984)の著者の竪山 初さんが恵命堂に送った礼状が残っている。
1988
昭和63
◆恵命堂ガジュツ工場が撤退<要覧くちえらぶ>  
1989
昭和64
平成元年
◆ガジュツ生産組合解散  
1989
平成25
◆ガジュツ生産を再開
口永良部島活性事業組合が、(株)恵命堂と契約しガジュツ生産を再開した。
 








 


 島津又七 氏

ここでは、口永良部島の「歴史年表」のなかから関連する項目を選び、下記の郷土誌からも転記載した.
吹上郷土史(中),吹上町教育委員会,1969
吹上郷土史,通史編2巻,吹上町教育委員会,2003
年 次 内 容     備 考
 

<注 ポータルサイト管理者>2014年11月
ネットで、島津又七氏を検索すると、島津久籌( しまづ-ひさとし)とあり、下記の記載があります。  

コトバンク
島津久籌 しまづ-ひさとし
1827-1911 幕末-明治時代の武士,神職。
文政10年5月18日生まれ。島津登の子。薩摩藩、永吉郷(ながよしごう)領主。島津久光につかえ、大目付となる。第1次幕長戦争では藩の先鋒(せんぽう)副総督をつとめる。慶応3年(1867)若年寄として藩兵をひきいて京都を警備。鳥羽伏見の戦いののち、藩の軍務を統轄。維新後、霧島神宮宮司(ぐうじ)をつとめた。明治44年9月26日死去。85歳。通称は権五郎,主殿,又七。

◆コトバンクに
記載されている、生年と没年は、島に残された又七の墓碑と一致する。
  <注 ポータルサイト管理者>2014年11月

◆霧島神宮への問い合わせ
(2014年11月)
維新後の初代宮司は、島津久風の3男である田尻 務(つかさ)、明治10年12月まで宮司。霧島神宮には、島津又七あるいは島津久籌の名前は記録にない・・・・とのこと。
<注>霧島神宮・宮司の件は、疑問がある。島津家の系譜をたどり確認する必要がある。
  「薩陽武鑑」によると、このころの永吉郷の禄高は4400石<吹上(中)>p282
 
  <吹上郷土誌からの転記載>2016年7月

◆島津又七 幕末最後の永吉郷の当主
又七郎(勇勝院)の次に、島津登(久苞)の長男久陽(又七)が永吉家をついだ。

◆長州出兵
元治元年(1864)8月幕府が長州征伐を布令したので、久陽は薩軍の副隊長として小倉に出征したが、薩軍は長州に兵を出すのを好まず戦闘には参加しなかった。慶応四年(明治元年、1868)、鳥羽伏見の戦いがおこり、久陽は外城士一隊長として前ケ浜より薩藩の汽船にて出陣し、京都守衛の任についた。兵数、氏名は伝わっていない。
久陽は後に、沖縄銀行の頭取となったが、銀行が破産したため、所有地の口永良部島引き移り彼の地で没した。<吹上(中)>p282

◆斉彬公の異母弟
系図には第14代の領主が又七とあり、名前は久陽とされている。さらに、記述の中に「実は斉彬公の異母弟」とある。また、「一度、島津権五郎登久苞の猶子となり、更に藩公の命により又七郎(勇勝院)の跡を嗣いで永吉を領す。永良部島に死す。維新の功により正五位を贈」とある。<吹上(中)>p309

<吹上郷土史・通史編>では、
第14代の領主の名は久籌とある。経歴などやや詳しい記述があるが下記はその抜粋。
安政2年(1855)に、家督相続が許され、権五郎を主殿と改名した。
文久3年(1863)には、薩英国戦争のため、久籌は2か月交代で台場の当番をしている。元治1年(1864)、京都二本松藩邸で大目付、8月には長州出兵の先陣で副総督に就いている。慶応元年(1865)宗門方掛、慶応3年には京都守衛にもあたり、家老方用向を務め、戊辰戦争では本営にあった(明治維新人名辞典からの引用のようである)。<吹上通史>p16-17

◆重責を担う
明治2年の小松清廉(帯刀) からの書状には、久光の急ぎの上京を伝え、京都における配慮を依頼している。久籌の当時の重責が窺われます・・・・とある。<吹上通史>p16-17

◆新村の 開村100周年
昭和43年(1968)南日本新聞は、「口永良部の新村部落誕生百年に誓う」と題して、3月で百年を迎えた口永良部新村部落は、この程一足早い(明治百年)の祝いをしたと報じ、古老たちの思い出や島の歴史を次のように伝えている。<吹上(中)>p283

「この部落は明治元年三月、初代の代官島津又七の来島にはじまる。当時、大政奉還の恩賞として、藩制の頃盛んだった薩藩とイギリス密貿易基地・口永良部島を又七がもらい、七人の家来をつれて来島、新村一帯の山林と新岳・古岳一帯の開拓がはじまった。古老の話によると入植者は六ケ月間、又七代官より成人男子に米1斗2升〈18キロ〉、成人女子に八升(12キロ)、さらに子どもにも一定割合で米が配られ、耕地が与えられた。その代償として又七代官の土地の耕作を引き受ける仕組みで、大正13年まで続いた。
大正13年二代目久徴代官が東京に引きあげる時、三十ヘクタールの耕地を20戸に払い下げた。だが、1万円の支払いに苦労、結局5年かかってサトウキビ製糖で得た金をつぎ込み完納したと云う」<吹上(中)>p283




<吹上郷土史、中>では、第14代の領主の名は久陽とある。



<注>
明治13年に設立された沖縄第152国立銀行があるが、設立の役員、出資者の中には、又七の名はない。出資者に島津久徴(又七の息子と同名)の名前があるが、元家老で又七とはかかわりが見られない。

<吹上郷土史・通史編>では、「斉彬公の異母弟」は2代前の当主である久陽(同名)としており、郷土誌に混乱が見られる。



<吹上通史>では、第14代の領主の名は久籌とある。
















<注>新村開村120周年は1992年に祝われ記念碑が建立されている。入植は明治5年であろう。また、入植者は家来ではないようだ。














<注>1万円
<安山:島の歴史(3)>p30では、1戸あたり700円とある。整合性はある。
1869
明治2
◆日置永吉郷の領主であった島津又七が明治2年に移住。島全体を藩主から譲られた。
その後、又七は、明治18年地租改正の折に、税金対策のために、必要なところを選んだ。火山から、硫黄を採掘した。また、湯向の「口永良部島牧羊社」に参加した。<安山:島の歴史(3)>p30
<注>
明治2年の入植時、島津又七は42歳。
薩摩藩で高い地位にあり、新政府でそれなりの職につけたであろう。離島に入植した動機は興味深い。
1871
明治4
◆明治4年、島津又七が山頂付近を借地し、採掘を始めた。この事業は明治20年ころまで続いた。<屋久高:報告>  
1872
明治5
◆日置郡永吉の領主、島津又七が新村に入植。<安山:島の歴史(3)>p29
◆島津又七が11人を率いて入植。11人は又七の家来ではない。一般募集か命令かは不明。谷山から農民の大穂、野元。国分から矢野など11人。又七は、11人には農業を営ませ、使役を課し、羊を導入、赤牛で材木を搬出させた。
農地、牧場の他に、硫黄鉱山も所有した。これらは、後年他人の手に渡った。
明治維新後にもかかわらず、又七は封建的な支配をした。鹿児島県の田舎では珍しいことではない。又七は、明治44年没。一族は鹿児島から連れてきた使用人に資産を売り払い、内地に引きあげた。<安山:島の歴史(3)>p29,30
◆新村
野元、大穂は谷山から、矢野は国分から又七とともに入植。坂口は宮崎県出身で、又七に伴われてきたのではない。他に、鎌田、大塚がある。鎌田は婚姻により余所から入った。大塚は元来、本村である。<安山:島の歴史(3)>p30
 
1883
明治16
◆士族授産事業の一環として、伊集院兼盛以下士族43名で「口永良部島牧羊社」が設立された。設立者は現業に参加せず。飼育主任は薬丸猪八郎、代表は有馬純行。又七も経営に参加した。下総より綿羊175頭を導入。牧場は島の東北部400町歩の原野。明治18年度には東京千住製繊所に羊毛を販売。薬丸は安房にも原野貸下を申請した。
明治22年、「牧羊社」解散。その後、薬丸は、伊藤と共に区の運営などに関わるが、資産を売り払い、戦前内地に引き上げた。<屋久高:報告>出典:県史第4巻p322、「鹿児島県畜産史、中巻」大正2年刊。
◆牧羊は島津又七の経営で、明治37年頃まで飼育が続いた。<安山:島の歴史(2)>p24
◆島津又七一族は、自らが連れてきた使用人に財産を売り引き上げた。<安山:島の歴史(2)>p25,p26、<安山:島の歴史(3)>p33
新村の人たちは、又七の土地を1戸当たり700円で入手、5年かかって支払った。<安山:島の歴史(3)>p30
 
1889
明治22
◆「牧羊社」が解散。<安山:島の歴史(3)>p30  
 1911
明治44
 ◆島津又七没 88歳(永吉郷へ帰郷した年は不明)   



 薬丸猪郎 氏 と その他の人たち


ここでは、口永良部島の「歴史年表」のなかから関連する項目を選んで記載した。

年 次 内 容     備 考
1883
明治16
◆馬毛島での牧羊の成功を見て、伊集院らが口永良部島に牧場を開いた。明治16年設立、22年には抵当公売処分。<安山:島の歴史(3)>p30
◆士族授産事業の一環として、伊集院兼盛以下士族43名で「口永良部島牧羊社」が設立された。設立者は現業に参加せず。飼育主任は薬丸猪八郎、代表は有馬純行。又七も経営に参加した。下総より綿羊175頭を導入。牧場は島の東北部400町歩の原野。明治18年度には東京千住製繊所に羊毛を販売。薬丸は安房にも原野貸下を申請した。明治22年、「牧羊社」解散。その後、薬丸は、伊藤と共に区の運営などに関わるが、資産を売り払い、戦前内地に引き上げた。<屋久高:報告>出典:県史第4巻p322、「鹿児島県畜産史、中巻」大正2年刊。
◆湯向には、
士族の薬丸猪八郎、伊藤甚熊が住み、帯刀していた。明治31年に諏訪瀬島から移住の畠、原口、西、久木山らを支配した。その勢力は本村にも及んだ。<安山:島の歴史(2)>p24
◆ 薬丸猪八郎は、明治33年に上屋久村の村長に。p362
村長を5期続けた後、本村区長を勤め、竹崎真之介とともに区のために尽くした。<安山:島の歴史(2)>p24
◆その後伊藤一族は、畠正助に財産を40円で売却し島を出た。<安山:島の歴史(2)>p25,p26、<安山:島の歴史(3)>p33
 

薬丸猪八郎
「下総牧羊場職員名簿」には、明治8年9月から明治16年8月まで在職とある。退職後すぐに、口永良部島の牧羊社に関わっていることになる。

出典:友田 清彦、下総牧羊場の系譜、出所は、下総御料牧場沿革誌

1883
明治16

伊集院兼盛
明治16年設立の「口永良部島牧羊社」と、設立者である伊集院兼盛の名前は、前田正名関係文書目録/国立国会図書館/1969/D1-23 に記載がある。https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_maedamasana1.pdf 

1)伊集院兼盛(鹿児島)建白 鹿児島県令宛 士族牧羊ノ件 明治17年7月14日 269
2)口之永良部島(鹿児島県)牧羊予算書 明治15年 285
3)鹿児島県大隅国駅謨郡口ノ永良部島牧羊日誌 明治17年9月 269

前田正名は、
薩摩出身、明治期に、大蔵省・農商務省などで殖産・興業に力を注ぐ。山梨県知事、貴族院議員として活躍した。
1888
明治21
◆青年の「夜学舎」が開校p998
◆「夜学舎」は、明治21年、19歳で鹿児島から着任した小学校教員・竹崎真之介が自宅を開放して開校した。竹崎は後に区長になる。また、刀圭(医術)の術も巧みで島民に恩恵をもたらした。功績を顕彰する碑が小学校の跡地に建立されている。大正13年建立。<紀徳碑・碑文>
◆竹崎真之介は医者を兼ねた。<安山:島の歴史(3)>p36
◆「夜学舎」では、16歳から27歳までの青年が、読書、算術、作文、習字を学ぶ。<金岳小100周年>
1889
明治22
◆「牧羊社」が解散。<安山:島の歴史(3)>p30  
1900
明治33
◆薬丸猪八郎が上屋久村の村長に(大正5年まで)。p362  
  ◆郵便船
初期には、有馬善浄氏が、その後、大塚秀義氏が一湊まで伝馬船で運航。数人が乗り込み櫓をこいだ。朝4時ころ出港、午後3時ころ着。帰りは、翌朝4時ころに出港した。
大正に入ると、船も大きくなり、櫓からエンジン付きに変わった。郵便船と人びとは呼んでいた。
昭和に入って、日高末右衛門、日高勘蔵氏などが運航。栄進丸(60トン)が就航し、口永良部島と鹿児島を結ぶ定期船となった。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p17-18>1980年
 
1916
大正5
◆湯向温泉の温泉小屋は、大正5年、西氏が主となり作った。<安山:島の歴史(3)>p42  
1948
昭和23
◆湯向分校開校。
久木山慶蔵さんを中心に、設置の運動をした。登校拒否まで行った。<根岸:南の島>
 
1949
昭和24
◆戦後、議員を3名出す。密輸基地として儲けた人もいたが一時のことだった。<堅山:屋久島>
 


 島を支えた功労者  貨物船、郵便船やフェリー




郵便船やフェリーも、口永良部島を支えてくれた功労者です。

年 次 明治時代  1868年~     備 考
1894
明治27
 ◆鹿児島から屋久島・種子島へは、最近になって月1回か2回、汽船の来往が始まった。明治27年より、月に5、6回になった。三島丸と栄城丸。口永良部島には月一回程度。<西和田久学,屋久島探検記> 西和田久学,屋久島探検記,地学雑誌,7集80巻,明治28年8月発行(生命の島26号,p95,1992年収録)
1895
明治28
◆三島汽船(株)が屋久島・口永良部島・種子島航路に就航。p610、p999
 
  ◆郵便船<渡辺百一氏による>
初期には、有馬善浄氏が、その後、大塚秀義氏が一湊まで伝馬船で運航。数人が乗り込み櫓をこいだ。朝4時ころ出港、午後3時ころ着。帰りは、翌朝4時ころに出港した。

大正に入ると、船も大きくなり、櫓からエンジン付きに変わった。郵便船と人びとは呼んでいた。
昭和に入って、日高末右衛門、日高勘蔵氏などが運航。

栄進丸(60トン)が就航し、口永良部島と鹿児島を結ぶ定期船となった。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p17-18>1980年

◆明治から大正にかけて、
帆掛け船で、一湊から郵便物を受け取りに。郵便局は島民が請負。それ以外に、喜入丸が月1、2回鹿児島から航行。<屋久高:報告>
 
1912
明治45
大正元年
◆地図作成のために測量した際の、口永良部島に関する記述あり。
月数回の一湊への郵便船、他に大川汽船が屋久島より不定期巡航。漁業と硫黄採掘。本村は旧来の住民、向江浜に寄留者あり。奄美航路の避難港。カツオ船の根拠地。<根岸:南の島>
 
1925
大正14
◆永井亀彦「南島日記」によると、
硫黄島から口永良部島へ
汽笛でハシケを呼び寄せ下船。岳経由で湯向へ。岩屋泊を訪ねる。栄進丸で帰途に。<永井:南島日記>
 
昭和初期 ◆昭和初期、硫黄会社の運搬船、栄進丸が月3回、島から鹿児島へ。<堅山:屋久島>
◆栄進丸は60トン、戦時中に沈没した。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p18>1980年
 
1946
昭和21
◆折田丸就航。4日に一便。一湊、栗生経由で早朝着。<根岸:南の島>  
1950
昭和25
◆1950年代の郵便船(5トン)は、唯一の交通機関。10人から20人を乗せた。<根岸:南の島>  
1971
昭和46
◆木村幸正「彷徨讃歌」1971刊行。4日に一便。2台のテレビ。一台の公衆電話。滄竹庵購入。<根岸:南の島>

◆第十折田丸が廃船、第二十折田丸が就航<公民館・沿革史>
折田汽船(株)所有の第十折田丸は、昭和 47 年 6 月当時、鹿児島~屋久島~口永良部島間を就航していた。<町船舶事業、経営健全化計画書2010年>
四さん(2014年、聞き取り)

折田丸は、小学校低学までハシケで乗り降りした。高学年では岸壁に接岸。
中学に入って、家にテレビなど電化製品が入った。
1972
昭和47
◆第二十折田丸が撤収。
町営船・太陽丸(52t)口永良部~宮之浦間に就航。p610
太陽丸就航は年末、所要時間2時間20分<公民館・沿革史>
船名「太陽丸」に決定「船名は、町内の小・中学生1252人から応募があった。口永良部丸、上屋久丸、くろしお丸などがあったが、太陽国体開催の記念もあり、太陽丸に決まった」<広報かみやく縮刷り版p270>
1982
昭和57
◆第二太陽丸199トン就航。宮之浦まで2時間。  
1996
平成8
◆この当時、第二太陽、199トン、一日一便。<根岸:南の島>  
1997
平成9
◆町営船フェリー太陽(499t)就航<町40周年>
建造費用 6.7億円の7割を、地方債を財源として建造した。<町船舶事業、経営健全化計画書2010年>
 
2013
平成25
◆フェリー太陽、漂流事故  
2014
平成26
◆3月、フェリー太陽が復帰
 










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年表の編集方針
屋久島町(旧上屋久町)の町誌や文書、公的機関から公表された資料を中心にし、その他に、書籍、学術論文など出版物や、直接の聞き取りなど、確かな情報源によって構成しました。

出典に記載された文意を損なわないように、簡略化しました。

出典は<>で囲んだ略称で記しました。同じ出来事が出典によって時期が異なる場合、そのままに併記して掲載したケースもありますが、順次、確認します。
上屋久町町誌の場合には、文末にp123
のように掲載ページを示しました。



参考文献  略記 
三国名勝図会,1843(天保14年)
島嶼見聞録,1885
笹森儀助,「拾島状況録」,1895
(前川慎一郎 訳編,「諏訪之瀬記」,1976)
鹿児島県畜産史(中巻),1913
永井亀彦,硫黄島・口永良部島篇,「南島日記」,1925
十島図鑑,1933年
学校沿革史(金岳小学校),1934年
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<前川:諏訪之瀬>
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<永井:南島日記>
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鹿児島県史,第1巻,1939,第2巻,1940,第3巻,1941,第4巻,1943
鹿児島県史,別巻1,1943,別巻2,1944,
鹿児島県史,第5巻,1969
鹿児島県史,第6巻,2006
川越政則,口永良部島物語,北山書房,「南日本文化史」,1950
<県史>
.
.
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<川越:文化史>
安山 登,「口永良部島の歴史1」
安山 登,「口永良部島の歴史2」
安山 登,「口永良部島の歴史3」,1966
安山 登,「口永良部島の伝説」,南九州郷土研究,16,p18~,1971
<安山:島の歴史>
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.
.
枕崎市史,1969
吹上郷土史(中),吹上町教育委員会,1969
吹上郷土史,通史編2,吹上町教育委員会,2003

鹿児島県立屋久島高等学校,「口永良部島調査報告書」,1974
広報かみやく縮刷版,1978
要覧くちえらぶ,1978
金岳小百周年記念誌「かながだけ」1979
渡辺百一著,金岳中学校編「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」,1980
上屋久町郷土誌,1984
屋久島聖-柴 昌範の生涯-,1986

生命の島,1986-2009
 .
<吹上(中)>
<吹上通史>
<屋久島高:報告>
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<金岳小100周年>
.
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.

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堅山 初,上屋久町教育委員会編,
 「生活誌-屋久島(口永良部島)に生きて」,8-31,1984
鹿児島大学・人文学科日本史学「日本史巡見下巻,口永良部島」,1988
上屋久町・鹿児島大学,「上屋久町の埋蔵文化財-遺跡分布調査報告書」,1989
枕崎市誌,1990
永 里岡,口永良部島の地名考,1990
<竪山:生活誌>.

<鹿大:日本史巡見>
<町・鹿大:埋蔵調査>
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口永良部島公民館, 「日誌」,1986年~1990年
要覧くちえらぶ,1993
屋久町郷土誌,1993~
口永良部島公民館, 「口永良部沿革史」,1994年まで
<公民館・日誌>
<要覧くちえらぶ>
<屋久郷土誌>

<公民館・沿革史>
根岸 泉,南日本新聞開発センター(制作), 「南の島へ行かないか」,1997
上屋久町,「上屋久町町制40周年記念誌」,2002
(株)プレック,「平成15年度口永良部島事業調査業務報告書」,2004
鹿児島大学国際島嶼教育研究センター,「南太平洋海域調査研究報告」,51,2011
<根岸:南の島>
<町40周年>
<プレック>
<鹿大






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