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「口永良部島ポータルサイト」で離島活性化。

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〒891-4208屋久島町口永良部島1232-3

 口永良部島の歴史 


口永良部島の歴史を年表にしました。

縄文時代 ~ 幕末までした。!

明治時代 ~ 現在    

集落の歴史年表もご覧ください。    


参考にした文献は下記です。

参考文献  略記 
元禄国絵図,~1702(~元禄15年)
三国名勝図会,1843(天保14年)
島嶼見聞録,1885
笹森儀助,「拾島状況録」,1895
(前川慎一郎 訳編,「諏訪之瀬記」,1976)
鹿児島県畜産史(中巻),1913
永井亀彦,硫黄島・口永良部島篇,「南島日記」,1925
十島図鑑,1933年
学校沿革史(金岳小学校),1934年
.
.
.
.
<前川:諏訪之瀬>
.
<永井:南島日記>
.
.
鹿児島県史,第1巻,1939,第2巻,1940,第3巻,1941,第4巻,1943
鹿児島県史,別巻1,1943,別巻2,1944,
鹿児島県史,第5巻,1969
鹿児島県史,第6巻,2006
川越政則,口永良部島物語,北山書房,「南日本文化史」,1950
<県史>
.
.
.
<川越:文化史>
安山 登,「口永良部島の歴史1」
安山 登,「口永良部島の歴史2」
安山 登,「口永良部島の歴史3」,1966
安山 登,「口永良部島の伝説」,南九州郷土研究,16,p18~,1971
<安山:島の歴史>
.
.
.
枕崎市史,1969
吹上郷土史(中),吹上町教育委員会,1969
吹上郷土史,通史編2,吹上町教育委員会,2003

鹿児島県立屋久島高等学校,「口永良部島調査報告書」,1974
広報かみやく縮刷版,1978
要覧くちえらぶ,1978
金岳小百周年記念誌「かながだけ」1979
渡辺百一著,「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」,1980
渡辺智弘,『口永良部島の廃仏毀釈について」
上屋久町郷土誌,1984
屋久島聖-柴 昌範の生涯-,1986

生命の島,1986-2009
 .
<吹上(中)>
<吹上通史>
<屋久島高:報告>
.
.
<金岳小100周年>
渡辺百一>
渡辺:廃仏
.
<柴:生涯>

 堅山 初,上屋久町教育委員会編,
 「生活誌-屋久島(口永良部島)に生きて」,8-31,1984
鹿児島大学・人文学科日本史学「日本史巡見下巻,口永良部島」,1988
上屋久町・鹿児島大学,「上屋久町の埋蔵文化財-遺跡分布調査報告書」,1989
枕崎市誌,1990
永 里岡,口永良部島の地名考,1990
<竪山:生活誌>
.
<鹿大:日本史巡見>

<町・鹿大:埋蔵調査>
.
<永:地名考>
口永良部島公民館, 「日誌」,1986年~1990年
金岳小学校体育館落成記念誌,1991年
要覧くちえらぶ,1993
屋久町郷土誌,1993~
口永良部島公民館, 「口永良部沿革史」,1994年まで
<公民館・日誌>
<体育館落成記念誌>
<要覧くちえらぶ>
<屋久郷土誌>

<公民館・沿革史>
根岸 泉,南日本新聞開発センター, 「南の島へ行かないか」,1997
上屋久町,「上屋久町町制40周年記念誌」,2002
(株)プレック,「平成15年度口永良部島事業調査業務報告書」,2004
鹿児島大学国際島嶼教育研究センター,「南太平洋海域調査研究報告」,51,2011
古市 和義,「多禰󠄀國年表(702-824)」,2017
<根岸:南の島>
<町40周年>
<プレック>
<鹿大

.
<古市:多禰國年表>




年表の編集方針
屋久島町(旧上屋久町)の町誌や文書、公的機関から公表された資料を中心にし、その他に、書籍、学術論文など出版物や、直接の聞き取りなど、確かな情報源によって構成しました。

出典に記載された文意を損なわないように、簡略化しました。

出典は<>で囲んだ略称で記しました。同じ出来事が出典によって時期が異なる場合、そのままに併記して掲載したケースもありますが、順次、確認します。
上屋久町町誌の場合には、文末にp123のように掲載ページを示しました。






 口永良部島の歴史年表    明治~平成 



明治以前の歴史年表は、 こちらの別表です。






年 次 明治時代  1868年~ 人口
()は
小学校
在校生
幕末 ◆幕末
半農半漁、カツオ漁期には、漁業に専念。坊泊、鹿篭、枕崎、内之浦から餌取船を伴った20人乗り以上のカツオ漁船が来航。エサ雑魚不足のため、21隻に免許を与えて制限。1隻につき礼銀1枚を納めさせた。出典:鹿児島県史第2巻。<屋久高:報告>
硫黄採掘
文久・元治の頃から採掘が始まった。3年間は採掘量も多かったが品質低下。明治初めには中止されていたが、島津又七が再開。明治20年頃まで続いた。大正、昭和に、硫黄採掘が本格化。<屋久高:報告>
   
       
1868
明治元年
◆イギリス人12人、朝鮮人9人が口永良部島に漂着。p222
1869
明治2
◆日置永吉郷の領主であった島津又七が明治2年に移住。島全体を藩主から譲られた。
その後、又七は、明治18年地租改正の折に、税金対策のために、必要なところを選んだ。火山から、硫黄を採掘した。また、湯向の「口永良部島牧羊社」に参加した。<安山:島の歴史(3)>p30
   <注>
明治2年の入植時、島津又七は42歳。
薩摩藩で高い地位にあり、新政府でそれなりの職につけたであろう。離島に入植した動機は興味深い。
島津又七について詳しくは集落の歴史をご覧ください。
   
 

<注 ポータルサイト管理者>
ネットで、島津又七氏を検索すると、島津久籌( しまづ-ひさとし)とあり、下記の記載があります。  

コトバンクでは
島津久籌 しまづ-ひさとし
1827-1911 幕末-明治時代の武士,神職。
文政10年5月18日生まれ。島津登の子。薩摩藩、永吉郷(ながよしごう)領主。島津久光につかえ,大目付となる。第1次幕長戦争では藩の先鋒(せんぽう)副総督をつとめる。慶応3年(1867)若年寄として藩兵をひきいて京都を警備。鳥羽伏見の戦いののち,藩の軍務を統轄。維新後、霧島神宮宮司(ぐうじ)をつとめた。明治44年9月26日死去。85歳。通称は権五郎,主殿,又七。

◆島津登について「コトバンク」では、
薩摩藩永吉郷(ながよしごう)領主。島津斉彬につかえ、琉球大砲船造船掛として昇平丸を完成させる。島津忠義の代に家老となり、戊辰(ぼしん)戦争では秋田方面に転戦。名は久包。・・・とある。

◆http://page.freett.com/sukechika/ishin/sonnoh/set05-4.html では
藩公・島津久光の側近とあり、
永吉郷四千四百石領主。砲術に精通し、在京尊王派の代表。

   
   <注:下記の記述はポータルサイト管理者>2014年11月調べ

◆霧島神宮への問い合わせ
(2014年11月)
維新後の初代宮司は、島津久風の3男である田尻 務(つかさ)、明治10年12月まで宮司。霧島神宮には、島津又七あるいは島津久籌の名前は記録にない・・・・とのこと。
◆コトバンクに
記載されている、生年と没年は、島に残された又七の墓碑と一致する。

<霧島神宮・宮司の件は、疑問がある。島津家の系譜をたどり確認する必要がある>
   
   ◆廃仏毀釈
金峯神社には、首と腕がない仁王像が一対ある。<渡辺:廃仏>
   
1870
明治3
1871
明治4
◆廃藩置県、藩政がこの時期まで続いた。P287、p290
◆明治4年、島津又七が山頂付近を借地し、硫黄の採掘を始めた。この事業は明治20年ころまで続いた。<屋久高:報告>
1872
明治5
◆日置郡永吉の領主、島津又七が新村に入植。<安山:島の歴史(3)>p29
◆島津又七が11人を率いて入植。11人は又七の家来ではない。一般募集か命令かは不明。谷山から農民の大穂、野元。国分から矢野など11人。又七は、11人には農業を営ませ、使役を課し、羊を導入、赤牛で材木を搬出させた。
農地、牧場の他に、硫黄鉱山も所有した。これらは、後年他人の手に渡った。
明治維新後にもかかわらず、又七は封建的な支配をした。鹿児島県の田舎では珍しいことではない。又七は、明治44年没。一族は鹿児島から連れてきた使用人に資産を売り払い、内地に引きあげた。<安山:島の歴史(3)>p29,30
新村
野元、大穂は谷山から、矢野は国分から又七とともに入植。坂口は宮崎県出身で、又七に伴われてきたのではない。他に、鎌田、大塚がある。鎌田は婚姻により余所から入った。大塚は元来、本村である。<安山:島の歴史(3)>p30

新村について詳しくは集落の歴史をご覧ください。
 
1873
明治6
1874
明治7
1875
明治8
1876
明治9
◆明治9年、枕崎の漁民らは、トカラでの漁を求めて、「南方諸浦人、鹿籠諸浦ヨリ口之島、臥蛇島ヘ係ル嘆願書」を県議会に提出されている。その内容から、幕末の頃はすでに枕崎はトカラ諸島近海を漁場としていたことが推察される。<枕崎市誌、上巻p553>
<注>当然、口永良部島の近海での漁もあったと考えられる。
1877
明治10
1878
明治11
金岳小学校開校p997
◆創立当初は、
「学校と称するに足らず。学舎は小民屋を借りて児童を収容。医者が診療の傍ら、朝夕の暇な折に読書、習字、算術を教えた。いわゆる寺子屋教育を施したのみだった。当時の島民は頑迷で、教育の必要を理解せず、就学を拒む傾向があった。」<学校沿革史>
◆教員に
正式の免許状をもった人などまったくなく金岳小学校の当初の教員に「教員兼医師石原淡氏」とあるように、医師などの知識のある一部の人が教師役をかって出たものと思われる。p730
◆初期の小学校は、
寺子屋形式で運営された。<金岳小100周年>
<注>学制は明治5年
◆江戸時代には、
「藩吏が来島して島政を行う時に、吏員に付いて読み、書き、そろばん習う。安政の頃には、島人にも3,4名が珠算ができるものがあり、師となって日常の計算や文字を教えた。幕末、糖業を強いられ、廃止を請願するために文字に長じた者が請願書を起草したが、罪に問われた。以後、島民は学問のある人は、このような目に合うと、文字を習うことを止めたが、珠算、帳簿の記入くらいは学ぶ者はいた。」<学校沿革史>
1879
明治12
◆学舎は
間口4間、奥行き3間、茅葺。児童数25名<安山:島の歴史(3)>p36
1880
明治13
◆水稲の収穫、24石。<安山:島の歴史(2)>p18 小学校
在校生
(25)
1881
明治14
1882
明治15
1883
明治16
◆馬毛島での牧羊の成功を見て、伊集院らが口永良部島に牧場を開いた。明治16年設立、22年には抵当公売処分。<安山:島の歴史(3)>p30
◆士族授産事業の一環として、伊集院兼盛以下士族43名で
「口永良部島牧羊社」が設立された。設立者は現業に参加せず。飼育主任は薬丸猪八郎、代表は有馬純行。又七も経営に参加した。下総より綿羊175頭を導入。牧場は島の東北部400町歩の原野。明治18年度には東京千住製繊所に羊毛を販売。薬丸は安房にも原野貸下を申請した。明治22年、「牧羊社」解散。その後、薬丸は、伊藤と共に区の運営などに関わるが、資産を売り払い、戦前内地に引き上げた。<屋久高:報告>出典:県史第4巻p322、「鹿児島県畜産史、中巻」大正2年刊。
◆湯向には、
士族の薬丸猪八郎、伊藤甚熊が住み、帯刀していた。明治31年に諏訪瀬島から移住の畠、原口、西、久木山らを支配した。その勢力は本村にも及んだ。<安山:島の歴史(2)>p24
◆牧羊は島津又七の経営で、明治37年頃まで飼育が続いた。<安山:島の歴史(2)>p24
薬丸猪八郎は、明治33年に上屋久村の村長に。p362
村長を5期続けた後、本村区長を勤め、竹崎真之介とともに区のために尽くした。<安山:島の歴史(2)>p24
◆その後伊藤一族は、畠正助に財産を40円で売却し島を出た。島津又七一族は、自らが連れてきた使用人に財産を売り引き上げた。<安山:島の歴史(2)>p25,p26、<安山:島の歴史(3)>p33
新村の人たちは、又七の土地を1戸当たり700円で入手、5年かかって支払った。<安山:島の歴史(3)>p30
◆朝鮮の船が漂着、船員6名を救助。<安山:島の歴史(2)>p21
  薬丸猪八郎
「下総牧羊場職員名簿」には、明治8年9月から明治16年8月まで在職とある。退職後すぐに、口永良部島の牧羊社に関わっていることになる。
出典:友田 清彦、下総牧羊場の系譜、出所は、下総御料牧場沿革誌
   
1883
明治16

◆伊集院兼盛
明治16年設立の「口永良部島牧羊社」と、設立者である伊集院兼盛の名前は、前田正名関係文書目録/国立国会図書館/1969/D1-23 に記載がある。
https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_maedamasana1.pdf 
1)伊集院兼盛(鹿児島)建白 鹿児島県令宛 士族牧羊ノ件 明治17年7月14日 269
2)口之永良部島(鹿児島県)牧羊予算書 明治15年 285
3)鹿児島県大隅国駅謨郡口ノ永良部島牧羊日誌 明治17年9月 269

   
    前田正名は、
薩摩出身、明治期に、大蔵省・農商務省などで殖産・興業に力を注ぐ。山梨県知事、貴族院議員として活躍した。
   
1884
明治17
◆陸軍参謀本部測量局作成の地図(20万分の1)に、口永良部島あり。p284
◆県の勧業課長が口永良部島を視察した。<根岸:南の島>出典:十島図鑑1933年発行
1885
明治18
◆向江浜:
明治18年以後、鹿児島本土から硫黄採掘に来てそのまま居住し、昭和6年からの噴火と昭和10年の山津波などで、過半数が前田に移住した。<安山:島の歴史(2)>p23
◆向江浜:
「鹿児島県諸島の実況」によると、明治18年に漁民で寄留する14戸があり、人口が68人(男43人、女25人)。明治45年に大火があり40余戸が焼失した。大正、昭和になると、硫黄採掘が本格化し、鉱山町に変貌した。硫黄採掘は幕末にさかのぼる。<屋久高:報告>
島嶼見聞録(明治20年出版)
地租改正のための調査報告書。口永良部島、三島、トカラ列島など、12島を調査した。復命書は明治18年12月5日。
1村2部に分かれて461人が住む。高齢者多く、91歳男、80歳以上6人。向江浜に釣魚のため寄留者14戸68人(男43人、女25人)。
本島も平族が潜伏したところで、日高、渡邊は末裔と云う。土人の口碑によると、都から来島の家には、公家から拝領の金杯、福山からの家には繁栄を記した書類があったが天保12年の噴火で焼失。
男子は断髪多し。性質は穏やか、朴訥で、人に丁寧、礼儀を重んじる。言語、衣服などは鹿児島の奮時の面影あり。親愛の情に富み、協和の心に感心する。築造のときは各戸が拠金。死者が出ると米穀を持ち寄る。しかし、怠惰倦怠、忍耐力に乏しく、職業に勤勉でない。
枕崎より客魚する鰹漁船一隻に5円。上陸寄宿するものは3舛を出す。島には、鰹漁船4隻。鰹を売り、米に換え貯蓄して、破船に備える。女子は15で歯を染め、16で嫁ぐ。遺跡、地名、噴火、地質の記述あり。
山林の項目に樹木の本数あり。松1.8万、椎1.5万、椨1.3万、ガジュマル50、濱樫350、蝋燭200、マテ0.5万、島黒木0.2万、ヘハル?0.35万、赤熔0.4万、タラ0.3万、セガシ?0.25万、甘木0.15万、クサ木0.25万、椿1.5万、桜1万、雑木25.5万本。
耕作は男女で、好漁期には男は漁業。松魚(カツオ)にして一人年平均3000尾。島民所有の鰹船4艘、伝馬船5艘。硫黄が約15万斤、輸出、支邦人に売り2500円。綿羊397頭、白毛が約105貫を東京羅紗製造所に売り、約219円を得た。島民富者なし、又貧者なし。就学児24、不就学38、毎日出席平均17。馬96頭、牛5頭、イヌ12、ネコ78、ブタ44、羊387、鶏287。<島嶼見聞録>
◆見聞録の抜粋が、「鹿児島県諸島の実況」<屋久高:報告>
◆久本寺住職の渡辺智弘氏「卒論」によると、
墓石等からみても藩政末期の宗教が法華宗であったことはまちがいない。明治18年になると、「維新以前は法華宗の一寺ありしも爾後廃寺となり即今は島民無宗旨なり<鹿児島県諸島の実況>」となって法華宗は衰微している。明治33年には本願寺説教場(後の永光寺)があり、真宗の布教は明治20年代~30年代に行なわれている。渡辺:廃仏
461
(24)
1886
明治19
◆本村:
2ヵ所に分かれ住む。96戸461名。2ヵ所がどこかは不明。
向江浜の住民は居留者として扱った。14戸66人。<安山:島の歴史(2)>p17 出典は「島嶼見聞録」か。
◆「口永良部島沿革史」によると、明治初期の島の様子は、
鰹魚、年3000尾平均、鰹魚船4艘、伝馬船5艘。他よりの鰹魚船4艘。硫黄を採掘し、無慮(おおよその意)10万斤を長崎に送り、支邦人に販売2500円。綿羊397頭。明治19年には96戸、461人。<川越:文化史>出典は「島嶼見聞録」か。
<注>「口永良部島沿革史」発行年は不明。戦後その一部が発見され、川崎著「南日本文化史」に抜粋・記載がある。<屋久高:報告>
越の湯(西之湯)は、明治19年、熊本の僧侶が発見。日露戦争の直前に、現在の温泉ができた。<安山:島の歴史(3)>p42
1887
明治20
◆金岳簡易小学校と改名p998
◆岩屋泊:
明治20年頃、喜界島からの移住者で形成された。姓は、備、秋田、藤、名嘉(仲ではないかとの指摘あり)、平田、基など。最盛期20余戸、100人。昭和5年に大火で16戸の内9戸が焼失し、以後の村人の離村のきっかけとなった。戦後、最後まで残ったのは2家族。屋久島の長久保に移転した。そのうちの一人は基万次郎。昭和30年頃に無人化した。<屋久高:報告>
◆口永良部島が、倭寇の根拠地になっていたことはありうること。口碑によれば岩屋泊が倭寇の本拠であったという。<川越:文化史>
◆明治20年、川辺郡沿海各村鰹漁業連合組合規約があり、漁場とし「口永良部島近海」との記述がある。<枕崎市誌、上巻p560 >
島嶼見聞録の出版
<注>明治18年を参照。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766686/6
(50)
  上の欄に「そのうちの一人は基万次郎」との記述がありますが「万太郎」の誤りだと、ご指摘がありました。<永久保の縁者の方から、2015年>    
1888
明治21
◆青年の「夜学舎」が開校p998
◆「夜学舎」は、明治21年、19歳で鹿児島から着任した小学校教員・竹崎真之介が自宅を開放して開校した。竹崎は後に区長になる。また、刀圭(医術)の術も巧みで島民に恩恵をもたらした。功績を顕彰する碑が小学校の跡地に建立されている。大正13年建立。<紀徳碑・碑文>
◆竹崎真之介は医者を兼ねた。<安山:島の歴史(3)>p36
◆「夜学舎」では、16歳から27歳までの青年が、読書、算術、作文、習字を学ぶ。<金岳小100周年>
1889
明治22
◆町村制が施行された。
口永良部島と屋久島北部は、馭謨郡(ごむのこおり、ごむぐん)上屋久村となる。p296、p998
◆国土地理院、20万分の一に、口永良部島の地形図が掲載されている。国土地理院により測量。<根岸:南の島>
◆「牧羊社」が解散。<安山:島の歴史(3)>p30
1890
明治23
◆「夜学舎」を「研鉱夜学舎」と改称。p998
1891
明治24
諏訪之瀬島の記録
「この年から、口永良部島の商人、袈裟助が毎年、自らのカツオ船で食料品や調味料、反物を現金で販売したり、砂糖と交換した。また、同じく四郎助も来島した」との記述あり。<前川:諏訪之瀬>
◆袈裟助
<前川:諏訪之瀬>に、「防波堤の上には老人が網を繕っていた。後で聞いたら之が清水袈裟助とて此の漁場の主人ださうな」との記述がある>
明治24 ◆渡辺百一さんからのメモ(2018年)
「だいたいこの頃、私のバアサン2~3歳の時、諏訪瀬島から母親と一緒に口永良部島にきたと思われます」<百一さんが、明治24年と推定した根拠は、祖母の来島年齢と死亡年代から>
   
1892
明治25
◆金岳簡易小学校は、3ヶ年間の尋常小学校となる。p736、p998
◆4ヶ年修業の尋常小学校となる。<学校沿革史>
<注>上屋久町郷土誌と異なる。
◆椎の実で貯金始める(終戦ころまで続いた)。通学区が、新村、向江浜にも広がる。<金岳小100周年>
◆野池三角点を、選点した。<根岸:南の島>出典:国土地理院、「一等三角点ノ記」
   
明治25 ◆渡辺百一さんによれば(2018年)、
「椎の実貯金は、小学校5、6年生ころ(注、昭和30年頃)まで続いた。椎の実の他に、マキの葉の赤い実を取って薬として売っていた。これは私達4,5年生の頃に終わっている」
   
1893
明治26
◆4年制の尋常小学校となる。<安山:島の歴史(3)>p36 (62)
1894
明治27
◆日清戦争では、2名の従軍。<安山:島の歴史(2)>p21
◆諏訪之瀬島の記録
「諏訪之瀬島の犬3匹のうち1匹は口永良部島から」との記述あり。<前川:諏訪之瀬島>
◆西和田久学,屋久島探検記
鹿児島から屋久島・種子島へは、最近になって月1回か2回、汽船の来往が始まった。明治27年より、月に5、6回になった。三島丸と栄城丸。口永良部島には月一回程度。<地学雑誌,7集80巻,明治28年8月発行>生命の島26号,p95,1992年収録
   
1895
明治28
◆三島汽船(株)が屋久島・口永良部島・種子島航路に就航。p610、p999
◆初めて女子34名が小学校に入学。<安山:島の歴史(3)>p36
(90)
1896
明治29
◆熊毛郡・馭謨郡,合併。熊毛郡となる。<第15 熊毛地域の沿革 >
1897
明治30
◆この頃、家屋に畳が敷かれた。<安山:島の歴史(2)>p18 (97)
1898
明治31
◆湯向:
大島郡諏訪瀬島の東条喜曽志(きそし)を代表とし、明治31年、口永良部区と契約し、11戸が湯向に移住した。富田原に11カ所、11町8反の開墾に着手。<安山:島の歴史(2)>p24
◆湯向:
奄美大島笠利町の東条喜曽志(きそし)が10数名と移住。帆船で牛と豚を持ち込んだ。西、久木山、山田の姓は、大島郡笠利町がルーツ。<根岸:南の島>出典:西村敬天記者「火の岳の下で」
◆諏訪之瀬島の記録<前川:諏訪之瀬島>
大島から諏訪瀬島への移住の記録に、久木山貞和志(明治22年移住)、山田宮積(明治17年移住、病で一旦帰り明治21年再移住)の名がある。それぞれの子孫が口永良部島の湯向に移住した。
東条喜曽志の名もしくは、東条の姓は、諏訪瀬島移住者リストには見当たらない。
<註>山田宮積氏の子孫は、岩屋泊の基、備、平田家などと姻戚関係にある
◆湯向:
昭和48年の調査当時、湯向には、8戸、13人。姓は畠、久木山、山田、多嘉、前田、中井がある。<屋久高:報告>
(96)
明治31  ◆畠 豊二さんによれば(2019年)、
「祖父(畠 正助)が奄美大島笠利から湯向に移住した。また、正助さんの弟は、トカラ中之島に移住した」
   
1899
明治32
◆枕崎の、
明治32年生まれの幸内船頭の回想(昭和54年記事)によると、枕崎のイデゴヤが何軒かあった。島で処理したかつお節は
「島イデ」と呼ばれた。大正末近くまで続いた。<枕崎市誌、上巻p612>、記載は<枕崎市史、p708>にもあり。
◆遠洋で
カツオが獲れても鮮度が落ちる。それを防ぐために、明治中期には、沖イデをしたが、地イデに及ばず。そこで、口永良部島、黒島、中之島辺りに前進基地を設け製造(島イデ)を始めた。<枕崎市誌、上巻p610>
◆向江浜には
18の製造工場があった。<枕崎市史>
(99)
1900
明治33
◆薬丸猪八郎が
上屋久村の村長に(大正5年まで)。p362
◆教育幻燈会が開かれた。<金岳小100周年>
◆1年生から4年生まで108人。2学級。<安山:島の歴史(3)>p36
(108)
1901
明治34
◆小学校に高等科が設置p1000
◆新校舎できる。<金岳小100周年>
(109)
1902
明治35
◆明治35、36年にコレラが流行る。5、6名が死亡。<川越:文化史>
◆郵便局開設<公民館・沿革史>
(104)
1903
明治36
◆越の湯(西の湯)は、
日露戦争の直前に、現在の温泉ができた。明治19年、熊本の僧侶が発見。<安山:島の歴史(3)>p42
(120)
1904
明治37
◆田代:
加世田から山師としてきた人によって形成。山口姓の系譜の人で七釜にショウノウを製造するエキス工場を持っていた。明治20年との説もある。昭和24、25年に開拓団が組織され入植者が加わった。<屋久高:報告>
◆日露戦争
金岳神社に記念碑あり。20名ほどが、従軍した。戦死者も出た。<安山:島の歴史(2)>p22
(101)
1905
明治38
(108)
1906
明治39
(123)
1907
明治40
◆カメの卵の採取用小屋を改築。産卵するカメは学校の管理下にあったらしい。<安山:島の歴史(3)>p36 (124)
1908
明治41
◆金岳尋常小学校と改称
◆高等科廃止。<金岳小100周年>
1909
明治42
◆県は、
鰹節検査場を各地に設けた。各出張所の製造量があるが、口永良部島は、鰹節4826貫、雑節200。一湊の3分の1、永田より多い。<枕崎市誌、上巻p865>
1910
明治43
◆野池三角点、標石を埋定した。<根岸:南の島>出典:国土地理院、「一等三角点ノ記」
1911
明治44
◆島津又七没 88歳(永吉郷へ帰郷した年は不明) 
年 次 大正時代  1912年~   人口
()は
小学校
在校生
小学校
卒業生()は
湯向
分校
  ◆郵便船
初期には、有馬善浄氏が、その後、大塚秀義氏が一湊まで伝馬船で運航。数人が乗り込み櫓をこいだ。朝4時ころ出港、午後3時ころ着。帰りは、翌朝4時ころに出港した。
大正に入ると、船も大きくなり、櫓からエンジン付きに変わった。郵便船と人びとは呼んでいた。
昭和に入って、日高末右衛門、日高勘蔵氏などが運航。栄進丸(60トン)が就航し、口永良部島と鹿児島を結ぶ定期船となった。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p17-18>1980年
◆明治から大正にかけて、
帆掛け船で、一湊から郵便物を受け取りに。郵便局は島民が請負。それ以外に、喜入丸が月1、2回鹿児島から航行。<屋久高:報告>
◆黒糖の製造
大正の初めころから盛んに。昭和30年代から生産は減少した(安政4年、1857年にサトウキビの栽培が始まったと推定)。初期の動力には牛が、後に水車が使用された。昭和40年代に、サトウキビの栽培も中止された。<屋久高:報告>
◆家屋は、大正時代に、茅葺から瓦葺に替った。<屋久高:報告>
   
1912
明治45
大正元年
◆地図作成のために測量した際の、口永良部島に関する記述あり。
月数回の一湊への郵便船、他に大川汽船が屋久島より不定期巡航。漁業と硫黄採掘。本村は旧来の住民、向江浜に寄留者あり。奄美航路の避難港。カツオ船の根拠地。<根岸:南の島>
◆硫黄
大正元年頃、硫黄は、大阪鉱業(株)、向江浜集落は、70軒以上。硫黄採取、運搬、製造、薪切り、梱包、運搬船など分業あり。<堅山:屋久島>
◆向江浜の大火
鰹節製造の小屋が失火、向江浜部落40余戸焼失。<金岳小100周年>
(174)
1913
大正2
(194)
1914
大正3
◆新岳、
大量の硫黄を噴出。p705
◆大正3年には、
大阪硫黄鉱業会社が農務省から火口付近600町歩の払い下げを受け硫黄採掘・製造を本格化した。七釜にも硫黄製造の飯場的な村ができたが、昭和8年の噴火によって消滅した。向江浜の硫黄製造は昭和18年ごろまで続いた。戦後試験的な操業もあったが、操業は再開されなかった。<屋久高:報告><安山:島の歴史(2)>p23
◆大正3年、大阪硫黄会社(社長小原子八太氏)が採掘を始めた。
硫黄採掘は、幕末から始る。天保の噴火後、大量の硫黄噴出を確認、文久元年頃から採掘が開始された。数年後に質・量ともに低下し中止となった。明治になり、島津又七が再開し、明治20年頃まで続いたがそれ以降は不明。<体育館落成記念誌
◆硫黄会社は、
大阪の杉村さんが設立。島民も、硫黄の釜たき、牛馬を持っている人は、硫黄を運搬して現金収入を得た。その後、小原子八太さんが引き継いだ。このころ、向江浜は、上町(別府町)、前町、中町、後町に別れ、会社は、後町にあった。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p15>1980年
◆七釜
硫黄は、硫黄玉にして、牛馬で海岸まで運搬した。朝早くから、駄賃(牛馬での運搬の呼称)に行く人も多く、朝方、岳を登ってゆく姿が行列をなし、アリのように見えたと云う。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p15>1980年
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
「大正3年の記録は火山噴火ではなく、鳴動と大量の硫黄の流出が確認されている。この頃は山頂で硫黄の採取が盛んであった。硫黄の採掘は元治1年(1864年)薩摩藩により開始されたが、藩による採掘は元治3年(1866年)に終わっている。採掘量が問題であったか、明治維新の影響かは不明である。その後、島津又七氏が県庁から明治4年、新岳、古岳の近辺を借地し、島津興業として明治5年から硫黄採掘を開始している。その後、明治44年に島津氏が亡くなり、借地権が無くなった。しかし、大正3年の硫黄噴出により、同年には大阪の硫黄鉱業会社(日の出鉱業)が、農商務省から火口付近600町歩の払い下げを受け、本格的に硫黄採掘が始まる。この事から、天保の大噴火からその後は、大きな噴火がなかった事が伺える。(天保12年の噴火から73年後)」
   
1915
大正4
1916
大正5
◆湯向温泉の温泉小屋は、大正5年、西氏が主となり作った。<安山:島の歴史(3)>p42
◆堅山 初さんによる島の生活記録
著者は当時75才、明治42年生(1909)。
大正5年小学校入学。石板と石筆。3年生ころ、ノートと鉛筆に。休み時間は、陣取り、輪回し、コマ回し。放課後は、子守り、馬の飼い葉切り。上級生になるとシイの実拾い。学校維持費や本人の貯金になった。学舎は旧・新が並列。2年間の補習科(高等小学校の前身)卒業後は、青年団に入団。夜学校があって勉強。剣道も習う。課外には縄ない、ノコギリの目立て、しめ縄つくり、テンゴ作りなど。青年訓練所で軍事教練が月4回。徴兵検査の旅費のために薪割も協同で。暮らしは、半農半漁。
本村には、カツオ船が2隻。枕崎の漁船も出入り、カツオ製造工場が海岸に林立。区費や青年団費は薪を供出。カライモは主食であり馬の飼料。砂糖製造工場が本村、向江浜、新村にあり。砂糖は、鹿児島の商店に販売を委託。肥料や日用品と交換。赤字であった。
硫黄会社の仕事も農繁期に休むと赤字清算書が来た。母は、昼は麦つき、夜は粉ひきなど重労働。サトウキビは4月植えつけ、3月ころから砂糖製造。必要な人数は、絞るのに3人、製造に5人、の計8名。
主食は、カライモと麦飯。米飯は、正月と祝い事、葬式。年頃の娘は、内地の紡績工場へ。家つくりや材木取り、運搬、屋根ふき、砂糖製造などは、「ユイ」で。馬が牛に代わるまでは馬を放牧して繁殖。
昭和初期、硫黄会社の運搬船、栄進丸が月3回鹿児島へ。当時は全島が区有林。「男立(おったて)奉公」2日間、道路補修や清掃。「無情講」葬儀の際、米一合を出し合って助け合った。<堅山:屋久島>
(244)
1917
大正6
(248)
1918
大正7
(256)
1919
大正8
◆川島元次郎「南国史話」、大正15年刊、p329、挿図の川上久良氏の記録では、
大正8年、人口1454人、本村125、向江浜71、新村19、岩屋泊12、湯向12、田代6、西湯1戸。産物は硫黄、黒砂糖、女竹など。牛馬おおよそ500頭、新岳山麓に無数のシカ生息す。温泉3ヵ所、湯向などは、夏季に屋久島や種子島からの浴客多数。古老や元船員(藩の貿易船)によると、55年前後さかのぼる頃(1864年)、英人が居住、藩との間の密貿易所(白糖方と称す)があったと云う。密貿易が発覚して獄死した銭屋五兵衛の一件の後、藩は密貿易所を解体(この件については、銭屋事件とは無関係との説がある)。当時、遺物がないか探索したが得るものがなかった。<川上久良氏の記録>
1454
(251)
1920
大正9
(253)
1921
大正10
◆口永良部島の地図(5万分の一)の測量<根岸:南の島> (260)
1922
大正11
(256) 卒業生
1923
大正12
(240) 30
1924
大正13
◆口永良部島の地図(5万分の一)の発行<根岸:南の島> (275) 28
1925
大正14
◆湯向で大規模な山火事。<金岳小100周年>
◆永井亀彦「南島日記」によると、
硫黄島から口永良部島へ
汽笛でハシケを呼び寄せ下船。岳経由で湯向へ。岩屋泊を訪ねる。栄進丸で帰途に。<永井:南島日記>
◆岩屋泊:
20年前に喜界島荒木から26戸で入植。動機は、官林を払下げてもらい開墾すること。山林は、鹿児島の業者に。目的が外れたと聞く。<永井:南島日記>
(272) 41
年 次 昭和時代(第二次世界大戦前まで) 1926年~ 人口
()は
小学校
在校生
小学校
卒業生
昭和初期 ◆昭和初期、硫黄会社の運搬船、栄進丸が月3回、島から鹿児島へ。<堅山:屋久島>
◆栄進丸は60トン、戦時中に沈没した。<渡辺百一、「口永良部島の物語・伝説・遊び・うた」p18>1980年
◆渡辺百一さんによると(2018年)、
「栄進丸の船長は私のじいさん(永江喜内、母方の父)で、終戦の末頃襲撃を受けて沈没」
   
1926
大正15
昭和元年
◆寝待温泉の落成記念碑によると、大正15年に9月6日。横9間、奥行き7間、竹屋根の小屋で、本村区が造った。<安山:島の歴史(3)>p43 (262) 33
1927
昭和2
◆ジフテリアが発生。<川崎:文化史> (264) 29
1928
昭和3
(261) 35
1929
昭和4
(261) 38
1930
昭和5
湯向児童合宿所ができる。<安山:島の歴史(3)>p38
◆岩屋泊で大火。16戸中、9戸が焼失。<金岳小100周年>
(275) 40
1931
昭和6
◆3月から鳴動。4月2日に爆発(新岳の西側山腹)。4月15日、5月15日にも爆発、降灰。向江浜を泥流が襲い民家6棟が倒壊、負傷者が数名。p706
(283) 40
   ◆大正11年(1922)生まれの古老、畠 盛杉さん(92才)からの聞き取り。(2014年8月の噴火直後)
「入学式の翌日に、噴火があり、岩屋泊まで夜道を歩いて避難した。当時、本村の児童合宿所で暮らしていたので、湯向の親とは離れに避難した。岩屋泊では洞窟で寝泊まりした。その後、屋久島の一湊に避難した」

◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
「昭和6年の噴火は、かなりの規模の大噴火であった事が、記録から知ることが出来る。3月20日頃から鳴動があり、噴火前から予兆が確認されている。4月2日、午後7時20分の噴火で新岳の西側山腹が土砂崩壊し、負傷者も2名出ている。当日の噴火直前の午後6時40分頃にかなり大きな地震があったとある。本村区記録によると、(3日の夕刻、口永良部島と屋久島からの発動船48隻で、1097人の島民が屋久島の一湊、永田へ避難した。)と記録がある。他の記録には、消防団は島に残ったとの記録もある。その後も、(5月15日、午後8時30分頃、小鳴動と共に二回目の爆発をなす。)と記録が残っている。3回目の噴火は6月6日であった。安山 登氏の聞き取った調査記録によると、(5月11日、午後より大豪雨の為、向江浜部落は大洪水、午後5時半頃の事、埋没家屋5棟、流出人家3棟におよびたり。5月12日午後、向江浜洪水被害として出張、不可抗力とはかかる事実についての言か、大石流出して全く驚くの外なき現状なり。)と残されている。この事から噴火直後に降った大雨で向江浜部落は土石流の被害に遭っていた事が分かる。その後、昭和9年まで噴火が度々起こり、昭和10年4月4日、午後6時半頃の豪雨により、山に堆積していた灰と噴石が山津波となり、向江浜の部落を飲み込んだ。死者5名を出し向江浜部落の歴史は終わった。この事から学ぶのは、噴火が及ぼす災害は、噴火の時だけではないと言う事である。(大正3年から17年後の大噴火)」

   
1932
昭和7
◆昭和7 年7 月、鳴動、噴煙 38
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。

「昭和7年7月23日は小規模、噴煙、鳴動、と記録が残っているだけで、この年は大きな噴火がなかった事が分かる」

   
1933
昭和8
◆昭和8年12月24日に大爆発
降灰、降焼石で七釜集落全焼、焼死者8名、重傷8名、軽傷17名、家屋全焼36戸、牛13頭、馬2頭が死ぬ。山林耕地に大被害。P706
(298) 40
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。

「昭和8年12月24日、
午前4時頃に大噴火。安山登氏の聞き取り調査記録によると、「全島が崩れるような大音響とともに爆発、31日まで強い爆発が数回続いた」と記されている。
大爆発し、七釜地区が全滅、死者8名、重軽傷者26名、家屋全焼15棟、牛、馬、山林、畑地に大被害があったと記録が残っている。しかし、重軽傷者数や全焼家屋の頭数などには、調査者により多少の違いがある」

   
1934
昭和9
◆昭和9年1月爆発。七釜地区、壊滅。P706
◆七釜は消滅したが、向江浜側での硫黄の採掘・製造は、昭和18年ころまで続いた。<屋久高:報告>
◆渡辺百一さんによると(2018年)、
「硫黄の採掘・製造は、私が小学校に入る前(昭和30年頃)まで向江浜で精製していたのを、私は見ている」
◆向江浜:
4月、大洪水、
山津波、地滑りを起こし、部落のほとんどが、浸水、家屋流失7棟、死者5名を出した。<安山:島の歴史(2)>p23 
◆湯向児童寄宿舎が落成。<安山:島の歴史(3)>p38
◆学校沿革史(金岳小学校)が、校長、教員の手で編纂。
(282) 37
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。

「昭和9年1月11日、午後4時42分新岳が大爆発降灰や落石があり、向江浜地区の人々は全員本村に避難した。この噴火で4年間も続いた噴火の脅威は、一旦、収束したが昭和10年の豪雨による山津波は、集落を全滅させた」

   
1935
昭和10
◆前田:
向江浜の住民は、上屋久村の斡旋で、前田に代替え地を得て、昭和10年に移転した。当時の前田は、人家はなく耕地だった。<屋久高:報告>
◆渡辺百一さんによると、
「向江浜から前田に移った人達の生活水は、人工的に水路(土の溝)と竹(唐竹)で作ったパイプ(管)で飲み水を引いた」
◆豪雨により
山津波を起こし、向江浜部落は、死者5名、家屋の被害多し。<金岳小100周年>
<注>山津波(土石流)は、安山氏によると昭和9年と記載されているが、他は昭和10年として混乱がある。
◆向江浜部落の移転先に横井手字が候補になるが、地主が承諾せず、前田字に決定<公民館・沿革史>
(289)は小学校
在校生
41
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
昭和10年4月4日、午後6時半頃の豪雨により、山に堆積していた灰と噴石が山津波となり、向江浜の部落を飲み込んだ。死者5名を出し向江浜部落の歴史は終わった。この事から学ぶのは、噴火が及ぼす災害は、噴火の時だけではないと言う事である。(大正3年から17年後の大噴火)」
   
1936
昭和11
◆無線電信が開通。<根岸:南の島> (284) 49
1937
昭和12
◆チフス患者20人ぐらい、2人死亡。<川越:文化史> (265) 41
1938
昭和13
(271) 41
1939
昭和14
(289) 37
1940
昭和15
(289) 51
1941
昭和16
◆金岳国民学校と改称p1004
◆昭和16年太平洋戦争。
補給船が停泊、連日グラマン機の襲撃があった。<堅山:屋久島>
(286) 39
1942
昭和17
◆番屋峯に対空監視所<公民館・沿革史>
警防分団詰所が建設。
(287) 35
1943
昭和18
◆向江浜の硫黄製造は昭和18年ごろまで続いた。戦後試験的な操業もあったが、操業は再開されなかった。<屋久高:報告> (297) 45
1944
昭和19
(254) 36
◆戦前
黒糖、カライモ、和牛など畜産業が盛ん。p363
◆戦時中
番屋が峯に、陸海軍の監視所があった。海軍は頂上に、陸軍は少し下。合計約20名が駐留。向江浜に警防派出所があった。<屋久高:報告>
年 次 昭和時代(第二次世界大戦後) 1945年~ 人口
()は
小学校
在校生
小学校卒業生
戦後

◆上屋久町郷土誌
戦前、黒糖、カライモ、和牛など農畜産が盛んで、特に戦後は、我が国の最南端の島として(北緯30度以南は、米軍により占領)、内外船舶の出入りが盛んとなり、黒糖、和牛を主産業として活況を呈したが、奄美大島の返還(昭和28年)により状況が一変した。
昭和38年頃より人口が激減し始めた。昭和27年、アリモドキゾウ虫の発生以来、カライモの生産が激減し、黒糖生産も斜陽化し、過疎とともに住民生活は次第に逼迫した。
昭和37、38年頃からガジュツ栽培が定着、昭和41年に恵命堂乾燥工場が建設された。肥沃な地の利を得て、ガジュツと畜産の複合経営により、比較的安定した生活が維持されつつある。
全山林の56%が、会社有林である。p361(昭和59年現在)

<屋久高:報告>
◆戦後
硫黄採掘・製造は、戦後試験的な操業もあったが、操業は再開されなかった。<屋久高:報告>
◆戦後
主要産物は牛とガジュツ。牧場は十条製紙からの借地が多い。<屋久高:報告>
◆渡辺百一さんによると(2018年)、
「税関支署が置かれた。私が6~7歳<注:昭和 29~30年>の頃まであった。署長の娘と小学校に入学した。その後転校して行った」
<注:トカラ列島の返還は昭和27年(1952年)、奄美大島の返還は昭和28年12月(1952年)であり、昭和 29~30年頃まで、良港のある口永良部島は、実質的な国境であったことがうかがえる。密輸取り締まりのためもあった>

1945
昭和20
◆11月3日 噴火:新岳火口東外壁で割れ目爆発、噴石、降灰。 (273)
()は、
小学校
在校生
48
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。

「昭和20年11月3日、時間不明、記録によると小爆発、山腹割目噴火、被害なし、と記録が残るだけで詳細な話がない。(昭和9年の噴火から11年後の噴火となる)」

   
1946
昭和21
◆昭和21年3月~昭和27年12月まで、口永良部島以南は占領軍の統治下にあった。<屋久高:報告>
◆折田丸就航。4日に一便。一湊、栗生経由で早朝着。<根岸:南の島>
47
1947
昭和22
◆国民学校が新制小学校に。新制中学校、開設。 38
1948
昭和23
◆沖縄、奄美出身の満州からの引き上げ者が入植。当時の人口は、湯向130人、永迫44人、白辻28人、寝待20人。<根岸:南の島>
◆永迫では、
昭和36年ごろから離村が始まった。昭和42年、43年には激減し、100人の人口があった永迫開拓地も1戸だけが残ったが、昭和44年には解散し、廃村になった。<根岸:南の島>
◆湯向分校開校。
久木山慶蔵さんを中心に、設置の運動をした。登校拒否まで行った。<根岸:南の島>
◆原因不明の熱病。15~16が罹患。<川越:文化史>
<注>小学校の年表や、上屋久町郷土誌の記述と1年開校がずれている。
55
1949
昭和24
湯向分校開校
◆金峰神社の由来
この年に出された神社敷地の再登記のための申請書に添付された「由緒書き」がある。<安山:島の歴史>
◆戦後、議員を3名出す。密輸基地として儲けた人もいたが一時のことだった。<堅山:屋久島>
(273)
卒業生
42
(5)
開拓団
<屋久高:報告>
◆永迫:
昭和24年、15戸69人が開墾を開始。昭和27年には23戸に増加。昭和26年に開拓農協が認可された。開墾の実績が上がらず、一部を除き全面買戻しの話もあったが、事情勘案され昭和38年に売渡された。しかし、離村があり昭和39年には6戸しか残らず。昭和42年に解散。<屋久高:報告>
◆田代:
昭和24年~25年頃、11戸で開拓団が組織された。戦前からの居住、戦時中の黒島からの移住、本村からの入植の組み合わせ。3町歩が配分された。昭和40年代に離村。調査時、昭和48年の居住者の姓は山口、日高(戦時中の黒島からの移住、平家の流れ)、羽生、加世田は、本村からの入植。<屋久高:報告>
   
分村運動 分村運動は、
同志会(壮年団)が発起人となった<公民館・沿革史>
◆永良部から選出の3名の議員から、分村の案件が提出され、賛成の意向が大勢を占めた。p364
◆嘆願書が、
上屋久村に提出された。しかし、分村後の経済的困難さが指摘され、実現しなかった。p364
   
枕崎との合併話 ◆枕崎との合併話
口永良部島沿革史の一部の写しが昭和25年に公表された。枕崎との合併話の折に、書類が枕崎に送られたが、返還されていない。<安山:島の歴史(2)p18>
<注>枕崎町と口永良部島との合併交渉があった言われるが、枕崎市誌には、合併交渉などの記載は、発見できず。また、枕崎図書館、枕崎漁業組合、鰹節生産組合などにも、口永良部島に関わる資料はなかった(注:2013年調べ)。
   
1950
昭和25
◆上屋久村、口永良部島支所開設。p1006
◆1950年代の郵便船(5トン)は、唯一の交通機関。10人から20人を乗せた。<根岸:南の島>
1954
(273)
52
(6)
1951
昭和26
◆ルース台風
◆漁港(第4種)改修工事が着工<要覧くちえらぶ>
◆根岸 泉,「南の島へ行かないか」,(1997)には、南日本新聞記者の巡視船同乗記事(1951年8月17日付け)の紹介がある。
口永良部島に関して「1950年は、
密貿易で60件の現行犯逮捕。駐在所と税関支署、監視署が置かれた」とあり、さらに島が密貿易の拠点であったことが記事となっている。これとは別に筆者・根岸による、島民からの聞き取りの記述がある。筆者・根岸は、島民の密貿易・密航への関わりが当時の占領状態や生活状況の中で、島民の”生活の知恵”であったと述べているいる。特に奄美大島からの密航・密入国の記事に、胸詰まる思いがするとし、権力に対する民衆の抵抗の姿があると書いている。<根岸:南の島>
◆カライモにアリモドキゾウ虫が発生。島外移出が禁止。p1007

➔➔➔
()は湯向分校卒業生
55
(8)
1952
昭和27
◆家畜:牛247、馬72、豚56、山羊175頭、にわとり956羽<屋久高:報告>
◆十条製紙が、林相1100町歩と、600町歩の農地を入手。<安山:島の歴史(2)>p22
(236) 41
(8)
1953
昭和28
◆金岳小学校、新築移転(上の運動場へ)<要覧くちえらぶ>
◆埼玉大学の三友國五郎氏らが、口永良部島の発掘調査着手(1953年)。p94~
湯向南方の、城之平遺跡から御領式、市来式土器出土。湯向の、平家の城では、市来式土器が主体で出土、御領式土器が伴出。富田原遺跡では、縄文、弥生の遺跡が重複。
城之平には市来式文化の時代に、一湊から植民、御領式文化を取り入れる頃まで生活し、噴火で退去と報告。P97
37
(5)
1954
昭和29
◆カライモに、アリモドキゾウ虫が発生し食用にならず、デンプンとして加工処理した。昭和34年、デンプン工場ができた。しかし、それも順調にいかず、調査当時(1973年)は生産も衰退している<屋久高:報告>
◆PTAが発足。<安山:島の歴史(3)>p37
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村944人(188世帯)、新村169(27)、湯向131(28)、田代76(13)、前田313(59)、向江浜215(53)、永迫102(20)、岩屋泊20(3)
1970
(235)
36
(5)
昭和29 ◆岩屋泊
倭寇の伝説がある。昭和29年(1954年)廃村。
<屋久高:報告>1973年
   
1955
昭和30
◆郵便局に無線電話が開通(指宿間)。通話時間は1時間。1時間通話し、2時間休み。受付8:00~20:00<根岸:南の島> 36
(4)
1956
昭和31
◆ピアノが入る。<金岳小100周年>
◆昭和31年、前田、50戸、272人、向江浜、216人。<屋久高:報告>
1822 29
(6)
1957
昭和32
◆竹使用の水道管が、すべてビニール製に。<金岳小100周年>
◆湯向、永迫、白辻、寝待に入植者入る<公民館・沿革史>
(264) 40
(4)
1958
昭和33
◆上屋久村が上屋久町となる。<町40周年>
島に初めて電気が入った。
農協が経営する重油による発電施設ができた。カライモの乾燥工場のために電気が必要になった。<根岸:南の島>
◆雨乞い祈願祭<公民館・沿革史>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村906人(180世帯)、新村190(28)、湯向150(25)、田代68(11)、前田276(50)、向江浜223(51)、永迫64(15)
◆渡辺百一さんによると(2018年)、
「私が小学校2,3年(人口が昭和29年1970名、33年約1877名)頃から口永良部島から転出される人が多くなり、島民の数もだんだん減少して行く。この年代になると水道管(竹)からエスロンパイプに移行して行った」
口永良部島の人口が多い時は2000人居るといわれていたのが、上の数字(昭和29年、33年の人口データ)で納得。上記の人口数字には、白辻、ネマチが入っていないのはどうしたのか?
<注 :根岸「南の島」p88によると、昭和23年1948年に、沖縄、奄美出身の満州からの引き上げ者が湯向近くに入植。当時の人口は、湯向130人、永迫44人、白辻28人、寝待20人。
公民館・沿革史によると、昭和32年に、湯向、永迫、白辻、寝待に入植者が入ったとある>
1877
(263)
31
(6)
1959
昭和34
◆カライモ乾燥工場。
デンプン工場ができた(1967年廃業)。カライモにアリモドキゾウムシが発生し、イモの島外移出が禁止になったためにデンプン製造が必要になった。
発電の出力が上がり、送電区域が拡げられた。各家庭への配電は夜間だけ。湯向、永迫、白辻への配電は、昭和47年。火力発電所は昭和56年。<根岸:南の島>
◆第4種漁港改修工事が完工<要覧くちえらぶ>
◆湯向の青年学級は、昭和34年に
鶴丸高校通信教育グループと認められた。2名の卒業生を出した。
また、大学入学資格検定で、全科合格者も出した。<安山、島の歴史(3)p40-41>
(269) 37
(9)
   ◆15年間、島に暮した小学校の先生(安山)夫人からの聞き書き(95歳、2013年12月)
昭和34年に、
前任地の屋久島小杉谷、安房から口永良部島・湯向の分校に。船から牛馬の糞の散らばる岸壁に上がり、牛に荷物を積み込み、14キロの未舗装路を分校のある湯向まで運んだ(注:湯向と本村間の幹線道路が完成するのは昭和36年、砂利道)。火事のために、建具のない教員宿舎にしばらく寝泊りした。ランプ生活の日々。開拓の人たちは、風が強くて、作物が育たない中で、現金収入がなく、ツケで物を買い、働いて返す苦しい暮らしぶりだった。
   
1960
昭和35
柴 昌範さんが、恵命我神散の原料、ガジュツの乾燥工場を建設。
1981年(昭和56年)翁の口永良部島への貢献を顕彰する碑が建設された。

◆区長だった種子永 進氏の記録によると、柴 昌範さんは、昭和54年までの20年間に、総額1億2500万円以上を口永良部島・島民のために寄付した。<屋久島聖-聖 柴 昌範の生涯p166>
1382
(245)
43
(5)
◆サトウキビ加工工場閉鎖?
1961
昭和36
◆恵命堂・乾燥工場を建築.
1988年(昭和63年)まで操業。<要覧くちえらぶ>
◆湯向、本村間、幹線道路が開通。砂利道。舗装は1986年(昭和61年)。海底ケーブルによる電話開通。湯向など入植者の離島始まる。昭和40年代初めに人口が激減。昭和44年、永迫解散。<根岸:南の島>
◆恵命堂社長、柴昌範氏が来島。ガジュツ栽培を奨励。畜産も盛んに。<竪山:生活誌>
◆ガジュツ栽培が始まる。調査の48年当時はどの村でも栽培。和牛生産は、戦後一貫して発展している。牛は昭和27年と比べ3倍になった。<屋久高:報告>
(227) 37
(10)
1962
昭和37
◆第4種漁港完成<町40周年>
◆昭和26年~昭和34年まで漁港改修工事で、向江浜は活気があった。<屋久高:報告>
(203) 33
(5)
   鶴丸高校の通信教育
34年~37年にかけて、湯向の青年学級は、鶴丸高校の通信教育グループとして認められた。青年学級で学べば高校の単位を取得できた。そのなかから、2人の卒業生が出て、1名が大学入学資格検定試験に合格した。<安山:島の歴史(3)p40-41>
   
1963
昭和38
◆防波堤灯台完成<町40周年>
◆ガジュツ生産
甘藷がアリモドキゾウ虫に食い荒らされ、ガジュツ作に切り替え。<広報かみや縮刷版p65>
(178) 35
(4)
   教員の息子さんだったT氏からの聞き書き。2013年12月
湯向時代(昭和34年~38年)は、ランプ生活。子どもは、はだし、鞄なしで通学、弁当はカライモ。
本村時代(38年~昭和42年)は、時間配電。実家がテレビを購入したのは島を離れた(昭和42年)以後に。
給食は、乾パンと脱脂粉乳だった。
   
1964
昭和39
◆恵命堂社長・柴昌範氏、金岳神社鳥居を奉納
◆本村のみ時間配電。海底ケーブルで公衆電話一台。船便は、4日に一便<根岸:南の島>
927
(145)
28
(3)
  15年間、島に暮した小学校の先生(安山)夫人からの聞き書き(95歳、2013年12月)
昭和38年、
湯向から本村へ転勤。養護教員の免許があったので、2年ほどは看護婦としての仕事も。医師は月に1回くらい鹿児島から。医師が不在の時は、電話で指示を受けながら、すり鉢で粉薬を混ぜ合わせ、薬包紙に包んで患者に渡した。散髪で耳を切った人、額を割った人など、傷の手当もした。2人の助産も。医師と連絡した電話は、郵便局に1本。多くの人が順番を待っていた。
   
1965
昭和40
町営診療所開設。<町40周年>
<注>記念誌年表では昭和40年開設とあるが、郷土誌p658には、41年開設とある。
◆永迫が閉村。<屋久高:報告>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村399人(113世帯)、新村79(20)、湯向48(17)、田代49(10)、前田100(28)、向江浜36(12)、永迫4(2)
715
(137)
27
(3)
1966
昭和41
◆11月22日 噴火:新岳火口で爆発、黒煙、噴石、負傷者3名、牛死亡1頭。
◆パン・ミルクの給食始まる。<金岳小100周年>
◆サトウキビ出荷は、この年まで<要覧くちえらぶ、1978>
629
(114)
25
(1)
  噴火については、小学校の作文集が残っている。<口永良部島歴史博物館>

島民の大塚(四)さん談(2014年、聞き取り)
噴火の時、小2年で担任は女先生。いち早く逃げた。安山先生は1年生担当。学校近くの側溝に学童を伏せさせていた。

◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。

「昭和41年11月22日、午前11時35分新岳大爆発、黒煙が上がり噴石、降灰があった。天候は晴れていた。記録には、前触れがなく突然の爆発で、噴煙は2000mに達し、落石の区域は吾郷より寝待仙水の間に大石落下、湯向地区に砂礫が落下、住家4棟の屋根に穴があく、開拓農道の各所に穴があき、大きなものは直径4m、におよぶ。との記録がある。また、新岳と古岳の5合目から6合目辺りで10数箇所出火し、その後自然鎮火したともある。死者は出なかったが重軽傷者3名を出した。
噴火後の本村区の記録は、12月19日まで残っている。当日の午後2時には屋久島宮之浦から助役が来島し、農協に災害対策本部が設置され、同じ、2時には一湊消防団、10名が来島している。午後5時には(巡視船おおよど)が寝待沖に待機し、午後7時には(巡視船さつま)と(巡視船いき)が本村港に待機している。この事から、噴火の当日には早い対応を執っていた事がうかがえる。その後も地震活動が活発であった事からかなり警戒行動をとっている様子が記録されている。巡視船などはこまめに入港していた。この噴火の予兆は確認できていない。(昭和20年の噴火から21年後の噴火)」

   
1967
昭和42
◆入学児童5名となり、1・2年生は複式学級。各戸1坪分のガジュツ売上を学校に寄付。<金岳小100周年>
◆デンプン工場、操業停止<要覧くちえらぶ>
◆善意の放送設備
「新村、前田、本村2ヵ所に放送設備が完成。恵命堂社長の柴昌模範氏が32万円を寄付して完成した。」<広報かみやく縮刷り版p7>>
572
(88)
20
(1)
1968
昭和43
◆12月~翌年3月噴火:噴石、降灰。
◆水道施設が完備。<金岳小100周年>
ガジュツ生産
甘藷がアリモドキゾウ虫に食い荒らされ、ガジュツ作に切り替えてから4年目の昭和42年は12ヘクタール。昭和43年には16ヘクタールに伸びた。<広報かみや縮刷版p65>
491
(78)
13
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。

「昭和43年12月21日から、昭和44年3月10日までの噴火は、数回の噴火があった。12月21日の噴火は朝5時30分、12月29日は午後2時43分と、3時5分の2回噴火している。12月30日の噴火は午後2時20分から15分間続く。(昭和41年の大噴火から2年後の噴火)」

   
1969
昭和44
3月噴火
◆湯向分校が廃校<広報かみや縮刷版p85>
「分校設立は昭和24年。2年後には台風で校舎が倒壊。校区民が苦労して再建した。昭和34年には児童数が67人となった。その後、家族ぐるみの県外転出が始まり、人口・児童数の減少が続いた。昭和43年9月からは、畠喜人君一人となった。畠君は、通学が3時間もかかるので、中学生と一緒に寄宿舎で生活、本校で学習する」<広報かみや縮刷版p85>
◆複式2、単式2の4学級を編成。
<金岳小100周年>
◆船籍イスラエル、韓国人数十人乗りの貨物船漂着、救助した。<安山:島の歴史(2)>p21
24時間送電開始<要覧くちえらぶ>
◆製糖がなくなる<安山、島の歴史(1)p88>
472
(73)
16
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
「昭和44年3月10日は大噴火と記録にある。被害はなし」

◆感謝される恵命堂・島の文化を支える「8時間配電の生活を強いられていたが、火力発電増設工事が完成し、24時間送電が始まった。44年度総費用600万円と予想されているが、電気料金の収入は10パーセント、不足額540万円は、恵命堂社長の柴昌模範氏が援助する」<広報かみやく縮刷り版p104>

◆島の悪路改装へ「恵命堂社長の柴昌模範氏は、多額の浄財を投じておられる。発電事業の補助、道路の補修、放送施設、その他の公共施設への寄付など、昭和37年以来、総額は約3000万円の巨額に達している。氏の寄付により、中学校に通じる道路約200メートルが舗装され、島民に感謝されている」<広報かみやく縮刷り版p105>
   
1970
昭和45
◆初の和牛登録検査
12頭が、検査に合格した。<広報かみやく縮刷り版p7>
◆保健福祉館完成<町40周年>
簡易水道施設完成<町40周年>
◆広島大学の具島健二先生が来島。研究を開始。生命の島、16号、1990<根岸:南の島>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村288人(99世帯)、新村38(14)、湯向14(7)、田代23(6)、前田47(16)、向江浜17(9)
427
(66)
15
昭和45 ◆駐在所落成「部落の片隅にあった老巧化した駐在所が、部落の中心地に完成。敷地は松田武雄氏が提供、建物は、恵命堂社長の柴昌模範氏が寄贈した」<広報かみやく縮刷り版p168>
久しぶりに高値「11月のセリでは、今までより高値がついて、生産者は喜んでいる。高値(安値)オス10万2千円(1万6千円)、メス7万円(2万2千円)」<広報かみやく縮刷り版p169>
◆簡易水道、明春早々から給水「簡易水道事業は10年目になる。今回の事業は国民年金特別事業によるもので、完成すると、本村、向江浜、前田地区の施設により150世帯470人に給水される。新村地区にも離島特別振興法によって整備される予定」<広報かみやく縮刷り版p170>
   
1971
昭和46
◆口永良部島発電所・3号発電機の火入れ式、柴社長寄贈<公民館・沿革史>
◆柴社長寄付により、本村地区の道路舗装<要覧くちえらぶ>
本村海岸通線を舗装「岸壁から280メートルが、恵命堂社長の柴昌模範氏の寄付で舗装された」<広報かみやく縮刷り版p185>
◆木村幸正「彷徨讃歌」1971刊行。4日に一便。2台のテレビ。一台の公衆電話。滄竹庵購入。<根岸:南の島>
◆完全給食始まる。でんぷん工場跡の貯水池を利用し、簡易プールを建設する。<金岳小100周年>
◆第十折田丸が廃船、第二十折田丸が就航<公民館・沿革史>
折田汽船(株)所有の第十折田丸は、昭和 47 年 6 月当時、鹿児島~屋久島~口永良部島間を就航していた。<町船舶事業、経営健全化計画書2010年>
◆簡易水道、122世帯へ給水開始<要覧くちえらぶ>
400
(56)
14
昭和46 ◆知事エラブを視察「金丸知事が初めて島を視察。巡視船さつまで硫黄島に寄港後、大しけをついて、本村港に入港。島民との座談会が行われた。船内で1泊、早朝に離島した」<広報かみやく縮刷り版p185>
子牛高値「子牛57頭、親牛11頭。子牛オス最高(最低)10万1千円(3万9千円)、平均6万9千円、メス9万円(2万2千円)、平均4万7千円」<広報かみやく縮刷り版p200>
◆大塚(四)さん(2014年、聞き取り)
この年、小6。給食のパンは、鹿児島から運ばれてきた。学校までリヤカーで運んだ。それまの給食パンは乾パン。
メジロは良く捕まえた。声が良いのを選んで飼育。声を楽しんだり、鳥を寄せるために使った。後になってカスミ網が使われるようになった。五右衛門風呂の火放り込み毛をむしって食べた。
折田丸は、小学校低学までハシケで乗り降りした。高学年では岸壁に接岸。
中学に入って、家にテレビなど電化製品が入った。
   
1972
昭和47
◆9月、噴火
◆第二十折田丸が撤収。
町営船・
太陽丸(52t)口永良部~宮之浦間に就航。p610
太陽丸就航は年末、所要時間2時間20分<公民館・沿革史>
◆第一回、島民体育大会<公民館・沿革史>
◆9月2日 噴火:新岳火口から黒色噴煙。
◆湯向へ配電開始<要覧くちえらぶ>
368
(44)
3
昭和47 ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
「昭和47年9月2日、新岳が噴火、黒色噴煙が確認されている。被害はなく特に大きな爆発ではなかったと思われる。(昭和44年の噴火から3年半後の噴火)」

船名「太陽丸」に決定「船名は、町内の小・中学生1252人から応募があった。口永良部丸、上屋久丸、くろしお丸などがあったが、太陽国体開催の記念もあり、太陽丸に決まった」<広報かみやく縮刷り版p270>
   
1973
昭和48
◆11月5~19日 噴火: 新岳火口、噴石、噴煙、降灰。
◆昭和48~49年にかけて、ヤマハ誘致の論議あり<公民館・沿革史>
330
(45)
14
昭和48 ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
「昭和48年11月5日から19日まで、噴火の記録があるが、噴石、噴煙、降灰とある。11月5日の噴火は午前7時15分、6日の噴火は午後1時58分、7日の噴火は午後8時40分。(昭和47年の噴火から1年2ヶ月後の噴火)」

◆湯向に昔のにぎわい「全国からの島出身者も参加して、へきんこ釣り大会が行われた。約50名が腕を競い、優勝は大阪から参加の久木山正一さん。努力賞は、山田より子さん。開催のきっかけは、湯向出身で一湊小学校で教員をする名嘉正博さんの呼びかけだった。氏は、ふるさと湯向の移ろいを”へきんこ新聞”でかつての同級生に伝えてきた」<広報かみやく縮刷り版p305>
   
屋久高の調査 ◆1973年 に屋久高が調査
新村:明治5年、廃藩で崩壊した島津一門の一族、島津又七が率いる11名が入植し開村された。現在、12世帯。
湯向:
古くから人が住んだ形跡や、温泉の発見もあったが、明治の初めに再び開村した。戦後の開拓団の入植もあり、永迫を合わせると50世帯にもなり、湯向分校も開かれた。現在は7世帯。
前田:
前田の東部山手に元村があった。天保の噴火による出火で全焼。本村に移住したと伝えられる。跡地には墓石、城跡がある。昭和10年の山津波により、向江浜から前田に移住したのがほとんどで、最盛期は80世帯になったこともあると云う。現在、前田は11世帯、33人。
向江浜:
明治18年頃から硫黄採掘で来島した人々が定住し村ができた。カツオ漁が盛んになると鰹節製造が始まった。昭和10年の山津波によりほとんどが前田に移住。48年現在、8世帯、14人。
田代:
明治20年頃に入植があり、昭和になって黒島や開拓団の入植も加わった。現在、数人の生徒と老人の部落である。
岩屋泊:
倭寇の伝説がある。昭和29年(1954年)廃村。
永迫・城之平ジョンデラ:
開拓団により開かれた。昭和42年、20年間の開拓の歴史に幕を下ろした。城之平は湯向城址、古い墓や寺跡あり。
七釜:
昭和8年~9年の噴火で部落は全滅。当時は40戸近くあり。
<屋久高:報告>
   
   調査報告書が発行「屋久島高校の先生と生徒が1973年7月から8月に、島を調査した結果をまとめたもの。指導は、橋本紘爾、砂泊兼正、大山勇作先生ら。同校の郷土研究部、生物部、山岳部の生徒17人が参加した」<広報かみやく縮刷り版p371>

◆1973年 に屋久高が調査
口永良部島の面積3804ha、山岳557ha、松杉林1403ha、原野744ha、
牧野650ha、農耕地150ha、その他300ha。3分の1の1211haを十条製紙が所有。人口330人。
普及率、テレビ81%、電気冷蔵庫75%、プロパンガス80%。
サトウキビ、デンプンの時代から、和牛生産とガジツ栽培へ。
医師は、屋久島から月3回、来診。 <屋久高:報告>
   
1974
昭和49
◆6月3日 噴火: 新岳火口、噴煙。
◆消防分団詰所完成。消防車が導入<町40周年>
◆家畜市場完成<要覧くちえらぶ>
◆公民館長、羽生時夫氏による昭和49年の陳情書では、
郵便局内に公衆電話、ボックス、農村公衆3ヵ所、委託公衆3ヵ所があるが、同時に使用できるのは4か所とある。前年にも陳情書あり。<根岸:南の島>
◆トビウオ漁最盛期、昭和50年過ぎから急激に不漁。<町40周年>
(36) 5
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
昭和49年6月3日、新岳噴火、噴煙との記録がある。特に大きな噴火ではなかったと思われる。詳細な記録や本村区の記録は現在確認出来ていない。(昭和48年の噴火から約8カ月後の噴火)」

島に生きる
山田武夫さん(明治37年本村生まれ。取材時67歳)
「20歳のとき、48円を手に大阪へ。すぐ連れ戻された。大阪市交通局に勤務した一時期をのぞき、農業、大工、機帆船業、旅館、鮮魚仲買商を手掛け、今は畜産・林業を兼業。昭和23年に寝待に入植。1.5ヘクタールを70ヘクタールに。14年前から杉を植え、それが格好の牧場になった。和牛40頭、からいも畑3ヘクタールの作業は一人で動力なし。子供たちに後継を望んだことはない。島は住みやすい。噴火で死んでもひとつの命。公害はなく、冷暖房の必要はない。絶対にこの地は捨てられない・・・・と語る」<広報かみやく縮刷り版p306>
   
1975
昭和50
◆エラブオオコウモリ、天然記念物に指定。p798
◆寝待温泉、改良工事完成<公民館・沿革史>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村207人(84世帯)、新村26(11)、湯向16(9)、田代15(5)、前田42(15)、向江浜11(7)
高齢者に無料乗船券「口永良部島に在住する70歳以上の高齢者に、太陽丸の無料乗船券を交付する条例が、新しく制定された。上屋久町では、バスの無料乗車券が支給されているが、島ではこのような恩恵が受けられなかったことから、要望があった」<広報かみやく縮刷り版p382>
317
(34)
10
昭和50 ◆へきんこ釣り大会「おととしに始まって、今年は3回目。全国から集まった出身者もふくめ、参加者は約70人」<広報かみやく縮刷り版p438>
明るい部落づくり「黒潮会が、西の湯の清掃活動。同会は、河川の清掃や、道路の補修など奉仕する団体。会長は鎌田時義さんで会員は12名。明るく住みよい部落作りは自分たちでと、4年前に若者や学校の先生たちでつくられた」<広報かみやく縮刷り版p445>
ツツジを守ろう「島に自生するツツジが盗掘され島外に持ち出されている。最近、目に余るものがあり絶滅が心配されている。町民みんなで盗掘を監視し、貴重なツツジを守りましょう」<広報かみやく縮刷り版p441>
   
1976
昭和51
◆4月2日 噴火。新岳山頂火口で爆発。山麓で爆発音が聞える。降灰が北西約2kmの向江浜、前田で約1cm積もる。
◆ガゼツ生産同好会発足<公民館・沿革史>
◆台風17号により災害救助法適用。3日間居座る。全壊17戸、半壊48戸。p697
吹き荒れた台風17号「島の西方海上に3日間も居座った台風17号により、18戸が全壊、46戸が半壊、136戸のほとんどが、屋根瓦や壁板をはがされた。ガゼツなど農作物も被害を受けた。災害救助法の適用を受け復旧作業に取りかかった。」<広報かみやく縮刷り版p479>
(30) 7
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
「昭和51年4月2日、午後3時30分、新岳爆発、山麓で爆発音が聞こえる。北西側約2キロの向江浜、前田集落に約一センチ降灰したと記録がある」

◆へきんこ釣り大会「約60人」<広報かみやく縮刷り版p477>
ロードミラーを寄贈「島に赴任した駐在さんが、ロードミラー1基を寄贈。小学校近くの十字路に設置された。寄贈主は、昨年4月に島に赴任した長田昭八巡査部長」<広報かみやく縮刷り版p477>
牛のセリ市「50頭が売却。平均10万2千円。前回より1万9千円高」<広報かみやく縮刷り版p478>
   
1977
昭和52
◆駐在警察官が屋久島署に引き上げ<公民館・沿革史>
◆貯氷冷蔵施設完成<町40周年>
豊魚びんぼうも解消「貯氷冷蔵施設が完成し、地元は5月からの操業に期待する。島はエビ、アラ、イシダイをはじめ、沢山の種類の魚が生息する”魚の宝庫”。釣り場としても有名だ。しかし、いったん海が荒れると、2、3トンの船では出漁もできない。これまでは、水揚げした魚介類も、施設がなく、その日の内に処分しなければならず、漁獲量が多いときなど破格の安値になるといった”豊漁びんぼう”の現象もよく見られた。今後は、施設の完備でこれらが解消され、鮮度の高い魚がいつでも利用できる」<広報かみやく縮刷り版p526>
◆湯向公民館、開設<町40周年>
湯向公民館が完成「9世帯14人の湯向地区に公民館が完成。町長も出席して落成式が行われた。館長の畠喜美彦さん(52)は、小さな部落に立派な公民館を造っていただきありがたい。末永く大切に、有意義に活用します。と喜びいっぱいだった」<広報かみやく縮刷り版p526>
(29) 6
   ◆子牛セリ市「3月、61頭がセリに。51頭売却。最高値20万円、最低2万2千円。平均8万3千円。7月、46頭がセリにかけられ40頭が売却。最高値はオス16万4千円、最低は4万1千円、平均7万8千円」<広報かみやく縮刷り版p501,p512>
◆口永良部島の特集「コピーの状態が悪く、抄録不可」<広報かみやく縮刷り版p513>
◆へきんこ釣り大会「湯向出身で、鹿児島市在住の名嘉正博さん(31)の呼びかけで始まった。島外含め約90名が参加。西ふみよさんが優勝」<広報かみやく縮刷り版p521>
   
1978
昭和53
◆廃棄場(ごみ・し尿)処理施設完成<町40周年> (26) 7
   ◆島で初の公民館長会議「町からは町長ら7名、各部落から9人が参加。和牛とガジュツづくりが盛んですが、高齢化のため、生産が伸び悩んでいる。ガジュツ生産者同好会を組織し、栽培面積の拡大や機械化を目指している。大形機械の導入や、子牛の舎飼資金の助成、農道・農地整備にも力を入れて欲しいなど要望が出され、山口町長らは、問題解決に積極的に取り組むと約束した」<広報かみやく縮刷り版p560>    
1979
昭和54
◆金岳小学校、開校100周年、開校は明治11年(1878年)
◆記念誌を発行<金岳小100周年>
◆ゴミ収集・し尿くみ取り始まる<要覧くちえらぶ>
(18) 2
1980
昭和55
◆9月28日 噴火。水蒸気爆発。多数の爆裂火口が新岳の東側斜面に南北800mのほぼ直線上の割れ目に沿って生じた(昭和20年の割れ目と同じ場所)。
◆金岳小学校改築工事完成<町40周年>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村172人(77世帯)、新村20(10)、湯向17(9)、田代11(4)、前田25(8)、向江浜9(4)
254
(22)
4
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
「昭和55年9月28日、午前5時10分に噴火、水蒸気爆発、多数の爆裂火口が新岳の東側斜面に南北800メートル、ほぼ直線状の割れ目に沿って生じた。昭和20年の噴火と同じ場所、と記録がある。この噴火による被害はなかったと思われる。(昭和51年の噴火から4年半後の噴火)」

<2014年8月、34年ぶりに噴火するまで、しばらく火山活動はなりを潜めた>
   
  ◆村上俊雄氏による遺跡分布調査
◆湯向地区で、弥生時代中期~後期の包括層を確認。p100
◆他地区にも、縄文、弥生遺跡あり(郷土誌に表あり)。p107
◆宮迫、新浦(三浦)、西ノ浜、下新道(住吉)、中野(黒瀬)、前田(金ケ迫)、平家の城(西ノ浦)遺跡がある。p110
◆古墳時代の出土品はない。須恵器の出土があるが、奈良、平安以降のもの。P115
   
1981
昭和56
火力発電所完成、電気事業の九州電力への移管。<町40周年><公民館・沿革史>
◆口永良部・青年会の発足<公民館・沿革史>
◆恵命我神散を企業化した柴昌範翁の口永良部島への貢献を顕彰する碑が建設された。顕彰碑は、公民館正面玄関の横にある。
<注>島の古老は、柴昌範翁は島の恩人と今でも涙を流す。





(16) 4
  ◆「生活誌-屋久島(口永良部島)に生きて」(1984)の著者の竪山 初さんが恵命堂に送った礼状が残っている。<柴:生涯>  
1982
昭和57
◆湯向港、部分改修着工。
第2太陽丸199トン就航。宮之浦まで2時間。
◆全島、自動加入電話が可能に。<根岸:南の島>
◆ヘリポート完成<広報かみやく>
(12) 3
1983
昭和58
◆永田交換局・口永良部分局が開設。電話、本土との格差解消。<広報かみやく>
◆国土一筆調査事業が始まる<要覧くちえらぶ>
(10) 3
1984
昭和59
◆製材所が完成、特定離島活性化事業による<要覧くちえらぶ>
◆シイタケ栽培が始まる<要覧くちえらぶ>
(13) 1
1985
昭和60
◆ウコン加工工場閉鎖
◆シイタケ同好会発足<要覧くちえらぶ>
◆製材所が落成<公民館・沿革史>
◆湯向温泉、この頃までは、茅葺(1988年新築)。<プレック>
◆本村・湯向間の、基幹農道が開通。<広報かみやく>
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村181人(80世帯)、新村19(9)、湯向19(10)、田代12(4)、前田25(11)、向江浜9(3)
261
(18)
2
1986
昭和61
◆一周道路工事が始まる<要覧くちえらぶ>
◆老人・憩いの家が落成<公民館・沿革史>
◆岩崎産業との間で、定期船航路、ホテル、植物園計画などの交渉あり<公民館・日誌>
◆寝待歩道完成<要覧くちえらぶ>
(19) 2
1987
昭和62
◆健康広場完成<町40周年> (16) 1
1988
昭和63
◆恵命堂ガジュツ工場が撤退<要覧くちえらぶ>
◆湯向温泉場完成、役場出張所が落成
(15) 3
年 次 平成時代  1989年~ 人口
()は
小学校在校生
小学校
卒業生
1989
昭和64
平成元年
◆文化財埋蔵調査報告書が刊行。
本村宮迫遺跡(金峰神社付近)寒ノ神式土器を確認。種子島でも確認。8000~9000年以上前に人が生活していたことが裏付けられた。<町・鹿大:埋蔵報告>調査は、昭和62年~63年
◆ガジュツ生産組合解散
(14) 2
1990
平成2
(10) 2
1991
平成3
◆体育館(金岳小中学校・僻地集会室)完成<町40周年> 203
(9)
5
1992
平成4
◆へき地出張診療所完成、遠隔問診支援システムを導入<町40周年>
◆新村開村120周年記念碑
除幕式と祝賀会
◆人口・世帯数<要覧くちえらぶ>
本村134人(71世帯)、新村8(4)、湯向24(12)、田代8(4)、前田16(9)、向江浜3(2)
197
(6)
2
1993
平成5
◆屋久島憲章、12月世界遺産決定<町40周年>
◆口永良部教育振興推進協議会
児童生徒の確保を図るため協議会をつくり、家族移転・孫もどし・山海留学などを推進する。<生命の島,30号p81,1994>
(4) 0
1994
平成6
◆金岳中学校新校舎完成<町40周年> (5) 1
1995
平成7
◆口永良部島シンポジウム<町40周年>
◆一周林道開通、口永良部線開通<町40周年>
166
(7)
1
1996
平成8
◆この当時、第二太陽、199トン、一日一便。<根岸:南の島> 175
(7)
1
1997
平成9
◆町営船フェリー太陽(499t)就航<町40周年>
建造費用 6.7億円の7割を、地方債を財源として建造した。<町船舶事業、経営健全化計画書2010年>
◆3月頃よりヤクシマザルの目撃。<プレック>
177
(6)
1
1998
平成10
◆定住促進住宅(1号棟)共用開始
◆国交省、離島振興策
アイランドテラピー構想のモデル地区指定
177
(7)
1
1999
平成11
◆独居老人世帯8戸に、テレビ電話を設置。 165
(8)
2
2000
平成12
◆寝待線が開通 169
(5)
1
2001
平成13
168
(3)
1
2002
平成14
◆へき地出張診療所
医師の常駐開始。
◆寝待温泉、施設新築
162
(4)
1
2003
平成15
◆診療所に医師が赴任 166
(2)
0
2004
平成16
(4) 2
2005
平成17
(6) 1
2006
平成18
(6) 0
2007
平成19
◆屋久島町が発足
◆口永良部島活性事業組合が発足
◆島の全域が、霧島屋久
国立公園に編入
◆本村区
現在、76世帯、145名、
昭和40年代までは、畜産や胃腸薬・我神散の原料となるガジュツの栽培や稲作など農業が盛んでした。いざなぎ景気を境に、人口が減少。65歳以上の割合は、35%。<広報かみやく>本村区長の執筆
◆湯向区
7世帯、9名。
昭和39年には、35戸、140名が生活を営み金岳小学校・湯向分校もあった。<広報かみやく>湯向区長の執筆
153
(8)
0
2008
平成20
◆本村温泉が開設 156
(8)
0
2009
平成21
◆米国人火山学者が行方不明
◆皆既日食
◆地熱発電調査
平成21年度「クリーンエネルギー導入調査・実証事業」で、
口永良部島における地熱資源の量・利用可能量などが調査された。
<屋久島町報告書>
◆島の人口
平成 21 年4月現在で 155 人、65 歳以上の高齢者が 64 人、高齢化比率が 41.3%<町船舶事業、経営健全化計画書2010年>
155
(9)
2
2010
平成22
◆豪雨で、がけ崩れ20数ヵ所 151
(13)
2
2011
平成23
◆口永良部島未来創造協議会が発足 155
(12)
2
2012
平成24
◆屋久島国立公園に名称変更
◆工事

橋の架け替え、定住促進住宅新築、消防詰所新築、防潮堤新設

146
(12)
2
2013
平成25
◆2月、常駐医師が退職し、医師不在の島に。
◆3月、島で最後の子牛せり市
◆工事
本村港物揚げ場、避難漁港船揚げ場、気象庁・火山監視設備(電柱新規設置、地震計ボーリング)、砂防ダム、枯れ木の伐採除去
◆シェアハウス「和在家」が発足
(活性化事業の参加する短・中期滞在者のための宿泊施設)
◆漁業用の小型製氷機導入
◆12月、フェリー太陽、
漂流事故
138
(11)
1
2014
平成26
◆3月、フェリー太陽が復帰
◆離島出身の高校生への補助が始まる。
◆8月3日新岳が
噴火
34年ぶりの噴火。幸いにも、島民と来島者は全員無事。
島民の約70名が島外へ一時避難。その3分の1は、屋久島町が用意した避難所で約一週間生活し、3分の2は、親戚や知人を頼った。島に残ったのは、役場支所職員、消防団員、発電所、郵便局、農協職員など役割のある島民で約40名。それ以外は、たまたま島外に出かけ留守だった。
◆工事
地震計ボーリング、避難漁港船揚げ場 など噴火で中断
138
(7)
1
  2014年8月3日の噴火の記録・報告は、特集ページに、掲載しました。
これまでの噴火の歴史は、特集ページとともに歴史年表にも記載しました。また、気象庁ホームページにも記録があります。

   
2015
平成27
◆本村温泉が一時休業
ボイラー不調で一時休業したが2ヶ月後に復帰した。
◆工事
番屋が峯の避難施設、着工
◆3月
新岳の山体が膨張、噴煙に”火映現象”が見られマグマ上昇の可能性<気象庁による島民説明会>。
◆医師不在が続いたが、4月に医師が着任。
◆5月29日
新岳噴火、警戒レベル5とされ、全島に避難指示。
◆6月18日
中規模噴火。
◆10月21日
噴火警戒レベルは5のままだが、警戒区域が全島から火口から概ね2.5kmと変更された。
◆12月25日
一部地域を除き避難指示が解除され、島民の帰島が始った。
  2
2016
平成28

◆1月
生コンクリート生産設備が着工
◆2月
レベル5と、火口から2.0km(一部2.5km)の警戒区域は変更なし<火山予知連>
◆3月上旬
医師が退職し、無医島に。
◆6月14日
噴火警戒レベルが5からレベル3に引き下げ。
噴火警戒区域が2㎞に縮小された。
また、前田地区の避難指示が解除された。
◆復興委員会の立ち上げ。

 2017
平成29
◆11月16日
天皇・皇后両陛下が、口永良部島の被災住民を激励するため屋久島に来島された。
   
 2018
平成30
◆4月18日
噴火警戒レベルが、レベル3(入山規制)からレベル2(火口周辺規制)に引き下げ。
◆8月15日
噴火警戒レベルが、レベル2からレベル4(避難準備)に引き上げ。
◆8月29日
噴火警戒レベルが、レベル4からレベル3(入山規制)に引き下げ。
◆西之湯温泉の護岸と建屋が流失
台風24号の影響で、西之湯温泉の護岸と建屋が流失、小型の漁船が波にさらわれた。
◆小規模噴火が連続
10月~12月にかけて、降灰をともなう小規模な噴火が連続する。
◆12月18日
火砕流をともなう
噴火。火砕流は、西側に約1㎞、東側に数百m。
年 次 令和時代  2019年~ 人口
()は
小学校在校生
小学校
卒業生
2019
平成31
令和元年
◆1月17日
火砕流をともなう
噴火。噴煙は6000m。噴石は火口から1㎞。火砕流は、南西と北西側に約1.5㎞。
◆豪雨被害
5月18日豪雨、崖崩れにより道路不通、床上浸水3戸、簡易水道の取水口が流失し断水するなどの被害。自衛隊が出動。
◆6月
噴火警戒レベル2に引き下げ。
◆金岳小・中学校の新校舎落成式。

   
   
                    


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                     明治以降の年表は 上の別表で。


 口永良部島の歴史年表の    江戸末期まで 


年 次 石器・縄文・弥生時代  
縄文時代 ◆本村宮迫遺跡(金峰神社付近)塞ノ神式土器を確認。他には、種子島で確認。8000~9000年以上前に人が生活していたことが裏付けられた。<町・鹿大:埋蔵調査>
◆口永良部島 噴火<屋久郷土誌,4>年表
◆埼玉大学三友國五郎氏による口永良部島の発掘調査着手(1953年)。p94~
◆湯向南方の、城之平(じょんでら)遺跡から御領式、市来式(縄文後期)土器出土。湯向の、平家の城では、市来式土器が主体で出土、御領式土器が伴出。富田原遺跡では、縄文、弥生の遺跡が重複。
◆城之平には市来式文化の時代に、一湊から植民、御領式文化を取り入れる頃まで生活し、噴火で退去と報告。p97
◆遺跡の空白
口永良部島や屋久島では、縄文前期に属する土器が発見されている。ところが、縄文中期の遺跡がまったく見つからない。一つ手がかりとなるものがある。一湊遺跡で見られる厚さ30cmの火山灰層は、口永良部島などで長期間にわたって相当、激しい火山噴火があったことを思わせる。縄文人は恐れおののき、口永良部島周辺の島々に近寄らなかったのかも知れない。p113-4
 
弥生時代 ◆村上俊雄氏による分布調査。
湯向地区で、弥生時代中期~後期の包括層を確認。p100
◆他地区にも、
縄文、弥生遺跡あり(郷土誌に表あり)。p107
◆宮迫、新浦(三浦)、西ノ浜、下新道(住吉)、中野(黒瀬)、前田(金ケ迫)、平家の城(西ノ浦)遺跡がある。p110
 
 
年 次 古墳時代  3世紀半~7世紀末  
古墳時代 ◆古墳時代の出土品はない。
屋久島はもちろん、口永良部島、種子島にも全く見あたらない。
屋久島、口永良部島などに須恵器の出土があるが、奈良、平安以降のもの。p115
古墳時代
3世紀半~7世紀末の400年間 
 
年 次 飛鳥時代  6世紀末~  
616~631
推古24~欽明3
◆推古24年~欽明3年にかけて、ヤク人が朝廷に帰化したり、その領国に漂着した。p118、県史p90
◆日本書紀では、ヤク人30人が大和に行き帰国せず。屋久島が大和朝廷とこのような関係にあるならば、口永良部島も同様の関係にあったと考えて良い。ヤクは屋久島だけでなく、すべての島々を含んでいたと考えられる。<川越:文化史>
<注>ヤク:手偏に夜と王に久、あるいは、夜句、もしくは手偏に夜と久。p118
 
702
大宝2
 ◆屋久島や種子島は、
9世紀初めに大隅国に組み入れられるまで
多禰国に属していたことが、多禰國年表(702-824)」から分かる。<多禰國年表は、2017年、古市和義さん作成>
<注>おそらく、口永良部島も多禰国に属していたと考えられる。
古市和義さんは、南種子町出身の写真家。古市氏による「鐡炮記」訓読文
年 次 奈良時代  710年~  
◆奈良以降の須恵器の出土がある。p115  
 
年 次 平安時代  794年~  
◆平安以降の須恵器の出土がある。p115
 
 
年 次 鎌倉時代 1185年~  
1185

鎌倉時代初期1185頃~
◆「屋久島は、守護島津氏の所領であったと思われる」と郷土誌には記載あり。p182(史料はない)
◆平家の落人が居住したと云われるのが、元村か本村かは、はっきりしない。天保の噴火(天保12年1841年)により、住民は、元村から本村に移住した。<安山:島の歴史(2)>p17
◆金坂(きんがさこ)には、平家が軍用金を埋めたとの言伝えがある。<川越:文化史>
◆平家落人の伝承は、屋久島、口永良部島で聞かれる。史料には見られない。伝承の一つとして位置付けたい。p181,182
 
 
年 次 室町時代  1336年~  
1408
応永15
◆屋久、恵良部が島津元久から種子島清時に与えられたとする文書が残っている。p156
屋久郷土誌では1408年とある<屋久郷土誌>
<注>恵良部(口永良部島)が
史料の中で初出
◆恵良部は、応永31年(1424年)に島津氏に取り上げられ、応永34年(1427年)に再度、種子島氏に与えられている。p156
◆この時代に至るまで、領主による支配がなかった屋久島の社会は転機を迎えた。p159
 
1424
応永31
◆口永良部島は、再び島津氏の所領に。p156  
1427
応永34
◆再度、種子島氏に与えられた。p156
◆南北朝後期、延文5年(1360)前後から、室町中期、永享2年(1430)前後までの間に、種子島氏の南島支配が完成を見た。p157
 
1467
応仁元年
◆種子島時氏が、法華宗僧・日良に説かれ宗門に入った。三島(種子島、屋久島、恵良部)は、法華宗に帰依。<屋久郷土誌>  
1471
文明3
◆李氏朝鮮の申叔舟著「海東諸国記」の海図に「亦島やくしま」、「恵羅武えらぶ」の島名が明記。<屋久郷土誌>  
1488
長享2
◆日増上人が、永田長寿院で八重嶽を鎮めるために祈る。p180
日増上人は、口永良部島でも布教し、律宗から法華宗に改宗させている。顕彰碑が1987年(昭和62年)に建てられている。<碑文より>健康広場にあり。
 
1543
天文12
◆禰寝(ねじめ)氏が屋久島を一時領有。p162
◆種子島氏と禰寝氏の合戦は、天正元年(1573年)まで続いた。屋久島、口永良部島が軍事的に意味を持つようになった。p163
◆種子島に南蛮船が漂着し、種子島氏に鉄砲がもたらされた。p160
 
1544
天文13
◆種子島氏が屋久島を取りもどした。p162、p166  
1556
弘治2
◆明国で発行の「日本一鑑」に三島、トカラ、種子島、屋久島と共に白不(えらぶ)の名がある。  
1566
永禄9
◆禰寝重長(ねじめしげなが)が、一湊、口永良部島の種子島勢を攻撃。種子島方が在城していた津城(つしろ)城を一時占拠した。p166、p170
◆口永良部島の城跡は、津城城の他に平家城(赤ケ崎)、城ノ平、富田原城(とんだばる)がある。いずれも平家落人の伝承と結びついている。P168の表
 
 
年 次 安土桃山時代  1573年~    
1573
天正元年
◆禰寝氏が、島津氏に下る。p174  
1593
文禄2
◆屋久島、永良部島ともに島津領となる。<屋久郷土誌>
<注>上屋久町郷土誌では、1595年とある。
 
1594
文禄4
◆翌年にかけて、太閤検地(文禄検地)。屋久島は、3634石。p174
 
1595
文禄5
◆口永良部島、屋久島、種子島が島津以久へ。p175
◆種子島氏は、知覧に領土替え。p175、p183
 
1599
慶長4
◆屋久島は種子島氏の所領に戻ったが、実質的には、島津の領有地。p177、p178
 
 
年 次 江戸時代 1603年~  
1602
慶長7
◆島津氏、家康から薩摩、大隅、日向を安堵される。p185  
1609
慶長14
◆薩摩藩の琉球出兵
「琉球渡海日々記」では、山川港を出港した島津藩の琉球渡海衆は暴風雨を避けて、口永良部島に寄港した。p181、p994、
 
1611
慶長16
◆1611年~1614年島津藩の第1回目の検地。p186  
1612
慶長17
◆屋久島、島津氏の直轄地に。p178  
 
1620
元和6
◆種子島、屋久島、口永良部島で、5626石。p188  
1632
寛永9
◆翌年にかけ、2回目の島津藩の検地p186  
1657
明暦3
◆3回目の検地。p186  
 ~1702
~元禄15
 ◆口永良部島の絵図あり
元禄年間に作成された
「元禄国絵図・大隅国」(国・重要文化財)に描き込まれている。
国立公文書館デジタルアーカイブに収録
1704
宝永年間
1704~1711
◆島に津口番所が置かれた。島津藩では25か所、「宝永上使御答書」。「列町制度」では、津口番所には鹿児島城下士が2人常駐。宝永5年の「監察使答抄」では、足軽3名づつ交替で勤めることとなっていた。p193
◆番所(バンドカ)は、藩政時代に密貿易をしたころの番所であるという。本村港の西の端に、番所跡、異人館跡と云われるところがある。慶應のころまで西洋館のあったところで、オランダ人が居住していた跡である。西洋館は、薩摩の密貿易船との交渉があった。<川越:文化史>
◆朝鮮船が屋久島口永良部島いぎすに漂着。<屋久郷土誌>
 
1711  
1721
享保6
◆屋久島と口永良部島で、焼酎屋が合計10軒ほど。p234、p995  
1722
享保7
◆1722年~1927年4回目の検地(享保内検)。記録あり。p186
◆御検地竿次帳、御検地名寄帳
享保7年~11年まで、郡奉行による人別改(人口調査)と検地。享保11年の諸名高究帳はそのまとめか。口永良部も含まれる。<生命の島,20号p93,1991>
 
1726
享保11
◆人口は419人(男211人、女208人)。p197

「享保内検」の記録から(実施は、享保7~12年)
◆享保内検で、口永良部島の検地名寄帳あり。p207
◆田の面積、約10ヘクタール、畑地28ヘクタール、屋敷地約1ヘクタール。P216、口永良部島、屋久島北部の田地の2割が口永良部島、永田は5割、畑地の4割が口永良部島。p218
◆船は、2枚帆船(10石積)が7艘。p219。
永田には帆のない瀬渡し船(2石積)20艘、2枚帆船(10石積)が9艘。一湊には、2枚帆船(10石積)が4艘。15枚帆船(450石積)2艘、16枚帆船(460石積)が1艘あった。p220。
網は口永良部島にはなかった。屋久島北部では、一湊に持ち網4帖。屋久島南部には、カツオ網17帖と持ち網4帖。藩の網の総計は1475帖、カツオ網は20帖。p223
◆寺屋敷帳に記載された寺。本行寺あり。p260
<注>
10石積=米10石を積める船。現在の船の大きさでは約1トン
米1石=約150kg 米俵では2.5俵
1反=米1石が収穫できる面積=300坪
1haヘクタール=1町
◆検地
屋久島1385石、口永良部185石<屋久郷土誌>
人口 416人
享保11 ◆諸名高究帳
屋久島の村別石高記録。口永良部の記録あり。御検地竿次帳、御検地名寄帳のまとめか。<生命の島,20号,p93,1991>
 
1728
享保13
◆屋久島規模帳
江戸中期、島津藩が作成した屋久島支配の基準となる掟書。その基礎には、御検地竿次帳、御検地名寄帳があり口永良部も含まれる。<生命の島,6号p72,11号p92,1987>
 
1781
天明年間
1781~1785
◆口永良部島、185石2斗。p188  
1785  
1789
寛政元年
◆「異国船番所並びに異国船遠見番所」が置かれた。全島津藩では38か所。p193  
1804
嘉慶9
◆琉球の帰唐船が漂着  
1812
文化9
伊能忠敬、屋久島を測量p280
口永良部実測はないが遠測。p281、p290
忠敬の大図3万6千分の1には、口永良部島は掲載されていない。中図21万6千分の1と小図43万2千分の1に、口永良部島が描かれている。p284
 
1821
文政5
◆諸国鰹節番付附表
全国の鰹節を評価した番付表。「薩摩、永良部節」が西の前頭二枚目として高く評価されている。ちなみに、西の大関は「薩摩、役島節」とある(屋久島か?)。<鰹節考>

 
1826
文政9
◆口永良部島、184石8斗 p188
◆184石、免本米とある。<屋久高:報告>
 
1831
文政14
◆遠島
配流地が永良部島、科ありとあるが、沖永良部島かもしれない。<吹上通史>p26
 
1834
天保5
◆口永良部島、142石6斗 p188  
1840  
1841
天保12
天保の噴火
5月23日 噴火:新岳、大爆発。同年8月1日 噴火:元村が全焼、死者1名(老女)。本村へ全戸移転。p705
◆天保12年の大噴火の後、
藩の産物掛が出張し実地検証して多量の硫黄が噴出することを確認し、文久・元治のころ(1860年代)から採掘を開始した。始めて3年間は採掘量も多かったが、質量ともに低下し維新の頃には中止されていた。
明治4年、島津又七が山頂付近を借地し、採掘を始めた。この事業は明治20年ころまで続いた。
大正3年には、大阪硫黄鉱業会社が農務省から火口付近600町歩の払い下げを受け硫黄採掘・製造を本格化した。大正になって七釜にも硫黄製造の飯場的な村ができたが、昭和8年の噴火によって消滅した。向江浜の硫黄製造は昭和18年ごろまで続いた。戦後試験的な操業もあったが、操業は再開されなかった。<屋久高:報告>
◆天保の噴火により、元村から本村に移住した。その頃の家は、茅葺、壁は竹網代。行燈で生活。平家の落人が居住したと云われるのが、元村か本村かは、はっきりしない。<安山:島の歴史(2)>p17
  ◆貴舩 森 さんの記録(2014年8月12日)から転載。
「天保12年6月15日(173年前)の新岳大噴火により、現在の前田地区にあった元村集落が全滅した。その為、それ以前の噴火の記録は、噴火による集落火砕により消失してしまった。他の記録としては口永良部島沿革史が存在していたが、昭和24年の屋久島村からの分村運動の折に枕崎市に貸したまま行方不明となっていると言われている。その為、天保の大噴火以前の記録はない。天保12年の噴火(2回目)での被害は死者が老婆1名との記録がある。昼間の噴火であった為に死者が少なかったと言われている。また、この噴火により防災として、当時は田んぼや湿地であった現在の本村に、集落を移す事となった」
 
1843
天保14
「三国名勝図会」における、永良部島の記述
即ち永良部島村と號す。長田村の海上三里にあり。屋久島に属す。俗に口永良部と號す。琉球の属島、沖の永良部島に対して呼ぶなり。周廻六里十八町。此島上古は能満郡に属すといふ。能満郡のことは、種子島の巻に詳なり。
此島の形状、大凡岡埠の如くにて、山林少し、屋久の闔島、山岳なると異なり、島中に簜竹甚だ多し。島山の内、御嶽と云へる山最も高く、古昔より燃続く所なり。往時大燃したることありて、大石を雨し、人家を壊し、死人等ありしといへり。
島地原野広き故、牧馬野あり。馬数百足を畜ふ。又島の西南に海灣あり。海灣の大きさ方半里餘、良港なり。故に琉球諸島より上下する舟船、必ず此港に繋泊する所なり。琉球諸島に下るには、この島より七島を歴て、大島深井ケ浦まで七十五里あり。其七十五里の洋中を、古へ阿摩美津ケ門(あまみつのと)といふ。今俗に七島灘(しちとうなだ)と呼べり。其海路落漈ありて、潮水東へ落る勢甚だ迅速にて、危険なる事甚し。故に其海路を過ぐるには、必ず謹み、絶好の順風を占て、帆を發することなり。其順風は、この島港にありて占ふとぞ。港辺に温泉あり。頗る病を治すといふ。<三国名勝図会>
 <注>
「三国名勝図会」は五代友厚の父、五代秀堯らが藩命を受けて著した。
1849
嘉永2
◆全島検地
屋久島1384石、口永良部184石<屋久郷土史>
 
1852
嘉永5
銭屋五兵衛
加賀の豪商・銭屋五兵衛の牢死(嘉永5年,1852年)を聞いた藩は、一日で西洋館を破壊し、証拠隠滅をしたと云う。<川越:文化史>
◆西洋館破壊と銭屋の牢死(嘉永5年,1852年)に12年の開きがあり、直接の影響によるとは考えにくい。幕府の追及を逃れるために破壊したとする方が自然であろう。<鹿大:日本史巡見>出典:若山喜三郎「新版・銭屋五兵衛」
 
1857
安政4
◆サトウキビ
安政4年(1857年)サトウキビの栽培が始まったと推定されている。この頃、島外の人夫まで動員して、黒糖製造を強制。大島、種子島でも同様。半農半漁の生活が成り立たなくなり、糖業廃止を訴えて罰を受けている。明治に入って、糖業は放棄されたと考えられている。<屋久高:報告>注:栽培開始年については、下記史料と食い違いがある。
 
1858
安政5
◆砂糖の製造については、この年の島津斉彬の書簡
「口之永良部島砂糖植え付け方、当年より申し付け候。本年より進々出来増可申上存候。十分に相成り候得は、200万斤は出来申可と被存候得は余程の益と可相成と存候」とある。<安山:島の歴史(1)>p88
◆甘藷栽培を藩より命じられ、この年までの12年間に20余町歩を植え付け製糖。種苗は大島より移植。黒糖の品質は中等以上。島津斉彬の死後に廃止。<弓削正巳氏による、薩摩藩沖縄琉球侵攻400年記念シンポジウム(2009)、元資料は県史料・斉彬公史料第3巻>
 
1862
文久2
西郷隆盛が、
大島へ配流され、呼び戻される帰途に口永良部島に立ち寄る。有馬新次郎宅に5泊。2月11日枕崎着。
風呂を使わして貰ったお礼の巾着が残る。佐竹正家蔵。<口永良部歴史資料館(金岳中学校)に巾着写真と文書展示>
航路図は下記。
  ◆西郷隆盛がお礼に渡した巾着の写真と、中から見つかった書類のコピーが口永良部歴史資料館(金岳中学校)に展示されている。写真の左上が巾着の写真コピー。
 
 
航路図の出典:北川忠武「西郷隆盛、潜居(奄美大島)から帰還のみち」1954年

 
1865
元治2、
慶應元年
◆鹿児島藩の密貿易所が、
口永良部島にあったと推断する。口永良部島には、この頃まで、西洋館があった。密貿易所を白糖方と称した。<川島元次郎:南国史話、1926年>出典:薩摩藩士・川上久良の調査資料、大正8年を参照。
上記は<鹿大:日本史巡見>に収録。
◆加賀の豪商・銭屋五兵衛の牢死(嘉永5年,1852年)を聞いた藩は、一日で西洋館を破壊し、証拠隠滅をしたと云う。<川越:文化史>
◆西洋館破壊と銭屋の牢死(嘉永5年,1852年)に12年の開きがあり、直接の影響によるとは考えにくい。幕府の追及を逃れるために破壊したとする方が自然であろう。<鹿大:日本史巡見>出典:若山喜三郎「新版・銭屋五兵衛」
◆鹿児島藩の密貿易所と銭屋五兵衛については、
口永良部島の記載が、深井甚三氏の論文(2008年、富山大学)にある。
 
幕末 ◆幕末
半農半漁、カツオ漁期には、漁業に専念。坊泊、鹿篭、枕崎、内之浦から餌取船を伴った20人乗り以上のカツオ漁船が来航。エサ雑魚不足のため、21隻に免許を与えて制限。1隻につき礼銀1枚を納めさせた。出典:鹿児島県史第2巻。<屋久高:報告>
 
年 次 明治時代      
明治以降の年表は 上の別表で。  
 



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