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屋久島町の離島ひょうたん島_口永良部島

Email: erabu.info@gmail.com

〒891-4208屋久島町口永良部島1232-3



口永良部島
 
2014年噴火
のページです


































2014年8月3日 噴火の1分後 撮影:ネット管理者

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口永良部島2014年(平成26年 )8月3日新岳噴火の記録

2014年8月3日12時24分、口永良部島の活火山・新岳が噴火しました。34年ぶりの噴火でした。幸いにも、島民と来島されていた皆さんは全員無事でした。
接近する大形台風11号の中で、再度の噴火が起これば避難のしようがなくなるとの危惧から、消防団の判断で子ども達や年配者、約70名が、島外に自主避難しました。その内3分の一は、屋久島町が用意した避難所で、台風が通過まで一週間を過ごしました。避難所となった「縄文の苑」での避難生活は、なに不自由なく、多くの皆さんから、お見舞いや差し入れを頂きました。皆さまのご厚意に心よりお礼申し上げます。

ご心配いただいた皆さまへの、ご報告とお礼をかねて下記に、
噴火の写真の他に、当日の様子や、これまでの噴火の歴史、避難所での生活体験記を、下にまとめました。


島民が撮影した噴火の写真information


島民が撮影した噴火の記録です。


撮影:ネット管理者


降灰に追われるように避難しました。

撮影:ネット管理者




撮影:関口 浩さん

撮影のご一家は、降灰の中を避難されました。

撮影:関口 浩さん

本村に迫る降灰、幸いにも南風が降灰を押し戻したお蔭で、避難が混乱せずにすすみました。

撮影:ネット管理者

火口から4㎞の高台に避難。

撮影:ネット管理者



撮影:ネット管理者


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貴舩 森 氏による記録  2014年information


噴火当日の様子 貴舩 森 さん 平成26年8月12日
平成26年8月3日、午後12時24分、新岳大爆発、田代地区、寝待地区降灰、火砕サージ?が前田集落を飲み込む。その速さに、本村地区の人も巻き込まれる恐怖を感じたと言う。当日は晴れ、殆どの人が昼食中で家におり、家族が近くに居た事で避難が早かった。
すぐに、消防車で番屋峯に避難を呼びかけた。理由としては予知が出来ていない噴火であった為、2次的な噴火を警戒した。湯向地区を除き、島民、来島者の避難は午後2時には完了した。昼食を食べていない人や、公民館に避難する人のために炊き出しを決定し、13名の婦人に協力を頂き、午後3時30分から公民館で炊き出しの準備、午後5時、番屋峯の避難所から解散し前田地区、向江浜地区、田代地区、寝待地区の住民は公民館へ避難させた。島民の死傷者なし。降灰、畑の作物被害あり。爆発音はジェット機の音、雷の音、採石場の大石を大量に流した音を全て足した様な轟音だった。
新岳の麓、火口から1.5キロ下の現場で作業をしていたボーリング会社の社員は、火砕サージに巻き込まれた。話によると、「空気が割れるようなバーンという音がした。」、「最初は雷だと思ったがすぐ違うと分かった。」、「車で逃げようとしたが他にも人がいるのに気が付き、助けにいったがすぐに火砕サージに飲み込まれた。」、「周辺は暗く、目も開けられないほどの世界だった。」、「全員で手をつなぎ少しずつ道を確認しながら本村集落の方向に歩き出した。」「灰の中はかなり熱かった。」、「しばらくすると風で灰が流されて視界が戻った、道が見えた、息がしやすくなった。」と話していた。彼らが助かった話の様子から、強い南風で助かった事が分かる。
 


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「口永良部島 新岳爆発記録」          平成26年年8月12日

                                作成者  貴舩 森

年 次

西 暦

月 日

番 号

噴火規模

天保12

1841

4月3日

①   

新岳爆発

天保12

1841

6月15日

 

新岳大鳴動・大爆発

大正3

1914

1月12日

②   

鳴動あり・硫黄を噴出

昭和6

1931

4月2日

5月15日

6月6日

③   

新岳大爆発・数日間地鳴り

新岳爆発・硫黄流出

新岳爆発

昭和7

1932

7月23日

④   

新岳小規模噴火・鳴動あり

昭和8

1933

12月24日

⑤   

新岳大爆発・鳴動あり

昭和8

1933

12月31日

 

24日~30日まで数回噴火

昭和9

1934

1月11日

⑥   

新岳爆発・数回爆発

昭和20

1945

11月3日

⑦   

新岳小爆発・山腹割目噴火

昭和41

1966

11月22日

⑧   

新岳大爆発・噴石・降灰

昭和43

1968

12月21日

12月29日

12月30日

⑨   

新岳爆発・年内に3回の噴火

昭和44

1969

3月まで

 

新岳爆発・噴石・降灰

昭和47

1972

9月2日

⑩   

新岳爆発

昭和48

1973

11月5日

⑪   

新岳爆発・噴石・降灰

昭和48

1973

11月19日

 

5日~19日まで数回噴火

昭和49

1974

6月3日

⑫   

新岳爆発

昭和51

1976

4月2日

⑬   

新岳爆発・降灰

昭和55

1980

9月28日

⑭   

水蒸気爆発・割目噴火

昭和57

1982

10月

 

噴気・噴気孔4箇所生成

平成3

1991

12月24日

 

有色噴煙が断続的に上がる

平成8

1996

1月

 

火山性地震が増加

平成11

1999

8月26日

 

火山性地震が増加

平成26

2014

8月3日

⑮   

新岳大爆発・水蒸気爆発・降灰・噴石・山頂の形が変化している事を確認

<注>上の表にある①や②は、下記の記録と対応しています。


「口永良部島の新岳爆発噴火の記録から」 平成26年年8月12日                                                作成者  貴舩 森

①  天保12年6月15日(173年前)の新岳大噴火により、現在の前田地区にあった元村集落が全滅した。その為、それ以前の噴火の記録は、噴火による集落火砕により消失してしまった。他の記録としては口永良部島沿革史が存在していたが、昭和24年の屋久島村からの分村運動の折に枕崎市に貸したまま行方不明となっていると言われている。その為、天保の大噴火以前の記録はない。天保12年の噴火(2回目)での被害は死者が老婆1名との記録がある。昼間の噴火であった為に死者が少なかったと言われている。また、この噴火により防災として、当時は田んぼや湿地であった現在の本村に、集落を移す事となった。

②  大正3年の記録は火山噴火ではなく、鳴動と大量の硫黄の流出が確認されている。この頃は山頂で硫黄の採取が盛んであった。硫黄の採掘は元治1年(1864年)薩摩藩により開始されたが、藩による採掘は元治3年(1866年)に終わっている。採掘量が問題であったか、明治維新の影響かは不明である。その後、島津又七氏が県庁から明治4年、新岳、古岳の近辺を借地し、島津興業として明治5年から硫黄採掘を開始している。その後、明治44年に島津氏が亡くなり、借地権が無くなった。しかし、大正3年の硫黄噴出により、同年には大阪の硫黄鉱業会社(日の出鉱業)が、農商務省から火口付近600町歩の払い下げを受け、本格的に硫黄採掘が始まる。この事から、天保の大噴火からその後は、大きな噴火がなかった事が伺える。(天保12年の噴火から73年後)

③  昭和6年の噴火は、かなりの規模の大噴火であった事が、記録から知ることが出来る。3月20日頃から鳴動があり、噴火前から予兆が確認されている。4月2日、午後7時20分の噴火で新岳の西側山腹が土砂崩壊し、負傷者も2名出ている。当日の噴火直前の午後6時40分頃にかなり大きな地震があったとある。本村区記録によると、(3日の夕刻、口永良部島と屋久島からの発動船48隻で、1097人の島民が屋久島の一湊、永田へ避難した。)と記録がある。他の記録には、消防団は島に残ったとの記録もある。その後も、(5月15日、午後8時30分頃、小鳴動と共に二回目の爆発をなす。)と記録が残っている。3回目の噴火は6月6日であった。安山 登氏の聞き取った調査記録によると、(5月11日、午後より大豪雨の為、向江浜部落は大洪水、午後5時半頃の事、埋没家屋5棟、流出人家3棟におよびたり。5月12日午後、向江浜洪水被害として出張、不可抗力とはかかる事実についての言か、大石流出して全く驚くの外なき現状なり。)と残されている。この事から噴火直後に降った大雨で向江浜部落は土石流の被害に遭っていた事が分かる。その後、昭和9年まで噴火が度々起こり、昭和10年4月4日、午後6時半頃の豪雨により、山に堆積していた灰と噴石が山津波となり、向江浜の部落を飲み込んだ。死者5名を出し向江浜部落の歴史は終わった。この事から学ぶのは、噴火が及ぼす災害は、噴火の時だけではないと言う事である。(大正3年から17年後の大噴火。)

④  昭和7年7月23日は小規模、噴煙、鳴動、と記録が残っているだけで、この年は大きな噴火がなかった事が分かる。

⑤  昭和8年12月24日、午前4時頃に大噴火。安山登氏の聞き取り調査記録によると、(全島が崩れるような大音響とともに爆発、31日まで強い爆発が数回続いた。)と記されている。大爆発し、七釜地区が全滅、死者8名、重軽傷者26名、家屋全焼15棟、牛、馬、山林、畑地に大被害があったと記録が残っている。しかし、重軽傷者数や全焼家屋の頭数などには、調査者により多少の違いがある。 

⑥  昭和9年1月11日、午後4時42分新岳が大爆発降灰や落石があり、向江浜地区の人々は全員本村に避難した。この噴火で4年間も続いた噴火の脅威は、一旦、収束したが昭和10年の豪雨による山津波は、集落を全滅させた。 ③参照

⑦  昭和20年11月3日、時間不明、記録によると小爆発、山腹割目噴火、被害なし、と記録が残るだけで詳細な話がない。(昭和9年の噴火から11年後の噴火となる。)

⑧  昭和41年11月22日、午前11時35分新岳大爆発、黒煙が上がり噴石、降灰があった。天候は晴れていた。記録には、前触れがなく突然の爆発で、噴煙は2000mに達し、落石の区域は吾郷より寝待仙水の間に大石落下、湯向地区に砂礫が落下、住家4棟の屋根に穴があく、開拓農道の各所に穴があき、大きなものは直径4m、におよぶ。との記録がある。また、新岳と古岳の5合目から6合目辺りで10数箇所出火し、その後自然鎮火したともある。死者は出なかったが重軽傷者3名を出した。噴火後の本村区の記録は、12月19日まで残っている。当日の午後2時には屋久島宮之浦から助役が来島し、農協に災害対策本部が設置され、同じ、2時には一湊消防団、10名が来島している。午後5時には(巡視船おおよど)が寝待沖に待機し、午後7時には(巡視船さつま)と(巡視船いき)が本村港に待機している。この事から、噴火の当日には早い対応を執っていた事がうかがえる。その後も地震活動が活発であった事からかなり警戒行動をとっている様子が記録されている。巡視船などはこまめに入港していた。この噴火の予兆は確認できていない。(昭和20年の噴火から21年後の噴火。)

⑨  昭和43年12月21日から、昭和44年3月10日までの噴火は、数回の噴火があった。12月21日の噴火は朝5時30分、12月29日は午後2時43分と、3時5分の2回噴火している。12月30日の噴火は午後2時20分から15分間続く。昭和44年3月10日は大爆発と記録にある。被害はなし。(昭和41年の大噴火から2年後の噴火)

⑩  昭和47年9月2日、新岳が噴火、黒色噴煙が確認されている。被害はなく特に大きな爆発ではなかったと思われる。(昭和44年の噴火から3年半後の噴火)

⑪  昭和48年11月5日から19日まで、噴火の記録があるが、噴石、噴煙、降灰とある。11月5日の噴火は午前7時15分、6日の噴火は午後1時58分、7日の噴火は午後8時40分。(昭和47年の噴火から1年2ヶ月後の噴火)

⑫  昭和49年6月3日、新岳噴火、噴煙との記録がある。特に大きな噴火ではなかったと思われる。詳細な記録や本村区の記録は現在確認出来ていない。(昭和48年の噴火から約8カ月後の噴火)

⑬  昭和51年4月2日、午後3時30分、新岳爆発、山麓で爆発音が聞こえる。北西側約2キロの向江浜、前田集落に約一センチ降灰したと

⑭  昭和55年9月28日、午前5時10分に噴火、水蒸気爆発、多数の爆裂火口が新岳の東側斜面に南北800メートル、ほぼ直線状の割れ目に沿って生じた。昭和20年の噴火と同じ場所、と記録がある。この噴火による被害はなかったと思われる。(昭和51年の噴火から4年半後の噴火)

⑮  平成26年8月3日、午後12時24分、新岳大爆発、田代地区、寝待地区降灰、火砕サージ?が前田集落を飲み込む。その速さに、本村地区の人も巻き込まれる恐怖を感じたと言う。当日は晴れ、殆どの人が昼食中で家におり、家族が近くに居た事で避難が早かった。すぐに、消防車で番屋峯に避難を呼びかけた。理由としては予知が出来ていない噴火であった為、2次的な噴火を警戒した。湯向地区を除き、島民、来島者の避難は午後2時には完了した。昼食を食べていない人や、公民館に避難する人のために炊き出しを決定し、13名の婦人に協力頂き、午後3時30分から公民館で炊き出しの準備、午後5時、番屋峯の避難所から解散し前田地区、向江浜地区、田代地区、寝待地区の住民は公民館へ避難させた。島民の死傷者なし。降灰、畑の作物被害あり。爆発音はジェット機の音、雷の音、採石場の大石を大量に流した音を全て足した様な轟音だった。新岳の麓、火口から1.5キロ下の現場で作業をしていたボーリング会社の社員は火砕サージに巻き込まれた。話によると、「空気が割れるようなバーンという音がした。」「最初は雷だと思ったがすぐ違うと分かった。」、「車で逃げようとしたが他にも人がいるのに気が付き、助けにいったがすぐに火砕サージに飲み込まれた。」、「周辺は暗く、目も開けられないほどの世界だった。」、「全員で手をつなぎ少しずつ道を確認しながら本村集落の方向に歩き出した。」、「灰の中はかなり熱かった。」、「しばらくすると風で灰が流されて視界が戻った、道が見えた、息がしやすくなった。」と話していた。彼らが助かった話の様子から、強い南風で助かった事が分かる。(昭和55年の噴火から34年後の噴火)

参考資料

「昭和41年11月22日の口永良部島新岳の爆発速報」、鹿児島地方気象台 屋久島測候所

「口永良部島 噴火の記録」、安山 登
「口永良部島 本村区 噴火資料」

  気象庁ホームページにも記録があります。


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噴火・避難生活の体験記  2014年information


ネット管理者による噴火・避難生活の体験記です。

ご心配いただいた皆さまへ

                  屋久島の避難所から   2014年8月5日

台風11号のこともあり、屋久島に避難しました。台風通過まで、あと数日の予定です。

台風で孤立して、再度の噴火が重なれば大変だ(島外に避難しようにも船も接岸できない)と云う、消防団や地区役員の判断です。全員ではないのですが、子どもと、われわれ足手まといの高齢者を島から出すのが作戦のようです。50名近くが島に残り、約70人くらいは島を離れたようです。
噴火は、8月3日12時24分、そろそろ昼食をと云うころでした。雷か?雷にしてはおかしいと、庭に飛び出し東を見ると、すでに噴煙は真上で、山を駆け下りる黒雲は目の前でした。火山とは2.5㎞離れているのに、すぐそこに迫ったる黒雲に仰天。

あわてて、カメラを取りに戻って撮影したのがネットにアップした写真です。我が家の南と西から、東方向にある火山を撮影。口永良部島ポータルサイトに、写真を掲載しました(上記
)。

幸いにも、噴石の飛来はなしでした。逃げろーと叫びつつ、写真を取りつつの逃避行・・・・・、持ち出したのは、カメラ、パソコン、頭巾代りの座布団。2人とも携帯を忘れました。食料、防災グッズはなし。
黒雲に追われるように車で避難。犬のチャッピーと猫のミーちゃんは、かわいそうに置き去りでしたが、彼らも無事でした。
この黒雲(黒い降灰+熱風)にまかれながら徒歩で避難したグループもありました(真っ暗で、息苦しく、熱いとのこと)。


子どものいる家庭にとっては、噴火が昼時で幸いでした。子どもを探さなければならないような状態なら、親はパニック状態になったことでしょう。

また、夜中に噴火しておれば、状況が把握できず、島民も避難をとりしきる消防団も混乱のきわみとなったことでしょう。
ともかく、島民と来島者が全員無事だったことは幸いでした。

初日3日の夜は島の公民館で一泊しました。
翌朝、町が仕立てた船便で、屋久島の施設に。今日まで、快適環境での避難生活です。


お見舞い、ありがとうございました。取り急ぎ、ご報告方々お礼まで。




避難所生活
 第2報です。           2014年8月10日


10日現在、屋久島の避難所で7泊8日目です。
台風は昨日無事に通過しました。幸いにも、すこし東側に進路をとったので被害なし。屋久島の南で停電があった程度ですみました。あす、島に帰れる予定。避難所生活も、そろそろ限度でしたのでやれやれです。

さて噴火にかかわる追加情報です。

◆火山情報
3日の噴火の後、新たな噴火はなし。
6日の晴れ間に、気象庁はヘリコプタからの観測をしたようです。マスコミ含めて山頂、麓の写真が出まわっています(気象庁も新たな情報をつかみ、さらなる爆発の恐れありと、より厳しい警告をだしました)。
新聞社のヘリコプターからの写真によると、山麓は、緑のところと灰色のところがくっきりと区別できます。灰色に変わったところは、火砕サージ(火砕流にあらず、火砕サージは降灰と熱風が谷を駆け下りる。火砕流はこれに崩壊した岩石などが入る)が走ったところです。
噴火直前まで、もっとも安心できる警戒レベル1でした。噴火直後にレベル3となりました。レベル3では、火口から2キロ以内は立ち入り禁止で、南側の一周道路は通行不可。東端の集落である湯向温泉へは、北側の道だけが通行可能です。なお、我が家は、火口から2.5㎞です。

7日朝には、
屋久島町の総務課長が避難所に説明に来られました。
6日に、気象庁から新たな情報が発表され、それによると、当初は今回の噴火は「マグマのかかわらない水蒸気爆発」とされてきましたが、噴石、降灰の分析から「マグマがかかわった水蒸気爆発(火山性爆発)」に変わりました。
今後は噴火があれば、火砕流の発生する可能性が出てきた・・・・と云うことです。

これにともなって、
我家から700m先の、「向江浜の入り口から先が立ち入り禁止」であったのが、「手前から立ち入り禁止」と、さらに厳しく変更されました。向江浜はウミガメの上陸する浜ですが、土石流が発生した地域でもあります。そのためにこれまで原則的に、「居住禁止」の地域でしたが、今後は住んではいけない地域となりました。
「居住禁止」の禁を犯して住んでいた独り者の老人(カメ観測の協力者)は、家に帰れない状況になりました。

◆予兆はなかったのか?
警戒レベルは、爆発前には最も低いレベル1であったのが、噴火直後にレベル3に引き上げられました(来島後もレベル3は、一度だけ短期間、経験済みです)。
今回、レベル1の状態で、突然に噴火がおこったことに、島民は不安と不信感を抱いています。噴火後、新聞に発表された京都大学教授のコメントでは、「いつ噴火してもおかしくない状態だった」・・・とありました。噴火直前に来島した気象庁職員の発言も、同じ発言があったようです。予知は、難しいにしても、情報が島民に知らされていなかった、沢山の観測機器は、研究のための情報集めか?・・・・・・・・と云った不信感が避難島民からも出ています。
今後、たとえ警戒レベル1に戻っても、警報レベルには信頼がおけなくなりました。

◆写真から
総務課長が、島で撮影された(島民による)写真を見せてくれました。
南側の道路、向江浜入口の立ち入り禁止地点から1キロばかり先での撮影。道路に直径30cmくらいの噴石、死んだ鹿、脚がやけどしており、耳が焼け縮れていました。火砕サージによるものです。(気象庁や大学からは、島民による撮影が危険だと叱られたようですが)
火砕サージが通過した境目も撮影されていました。焼けたり灰にまみれた森と、元のままの緑の森がはっきり写真でも区別できます。報道されたヘリコプターからの写真でもこれが見て取れます。
火砕サージが、前田や向江浜に向かっておれば、かなりの被害が出たことでしょう。われわれの避難も間に合わなかったかも知れません。

◆ボーリング工事5人組
噴火当日は、火砕サージが通過した谷の手前(われわれの暮らす本村集落より)で、地震観測用のボーリング工事が行われていました。作業員5人は、一先ずは、近くの避難壕に逃げ込み(壕は黒雲に覆われ役に立たなかった・・・ようですが)ましたが、黒煙に包まれ、これはいかんと車で本村に向かったそうです。しかし、黒雲に巻き込まれ運転不能。真っ暗な中、5人が車を降りて、手をつなぎながら、側溝づたいに歩いて逃げたとのこと。しばらくすると明るくなり、救援の車が来たのでそれに乗って本村集落に帰還。全身真っ黒で、避難場所に現れたようです。火砕サージが走り抜けた手前が工事現場であったので、黒雲に巻き込まれるだけで済んだようです。これが、今回で最も危なかったケースです。

◆ポータルサイト掲載の写真(島民撮影)で、
立ち登るきのこ雲の下に黒雲が迫っていますが、爆発後ほんの1,2分で山麓に到達していることが写真からわかります。われわれを追いかけた黒雲は幸いにも火砕サージではなくマイルド火砕サージと云えるのでは?5人組の他にも、この黒雲に巻き込まれたグループがあります。巻き込まれた体験者によると熱く息苦しかったようです。
新聞の報道写真では、火砕サージが駆け下りた山麓は赤茶けて見えます。方向は火口から南の山麓でした。もしこれが、南西向で集落に向かっておれば、かなりの被害がでたはずです。ラッキーでした。
◆避難所は、
老人用のデイケアーセンターにあり、間借り状態です。設備、待遇は良く快適です。ありがたいことに、連日のように、差し入れがあります。車を持ち出せたので、日中の用足しなどには便利しています。
当初は、避難生活もいい体験になるかなと・・・・・・のんきに構えていたのですが、ブルーシートの上で、テレビのインタビューを受ける立場になると、これまで、なにげなく映像で見ていた避難の皆さんのみじめで複雑な思いに行きあたりました。
活火山のある暮らしは、覚悟のうえでした。自然災害は素直にあきらめのつくことです。福島のように原発事故で故郷を追われた方々の、未来を失った無念と消失感は、耐え難いものだろうと、今さらながら心痛みます。

と云うことで、明日11日は、島に帰れる・・・・・・と、やれやれの思いで夜明けを迎えました。


島に帰りました!!      2014年8月12日

昨日11日、台風が通過し避難所が閉鎖されました。
復活したフェリ-太陽で、11日午後に、島に帰りつきました。
家は無事。
動物病院のホテルで一人ぼっちだったみーちゃんは、昨夜は鳴きっぱなし。おそらくホテルでも鳴いていたのでしょう。ガラガラ声になっています。フェリー太陽で、震えていたチャッピーも、今は落ち着いています。
菜園は、被害なしでしたが、草ボウボウ。

新岳の山頂は、新たな火口ができ形状が一変しました。火口周辺は吹き飛んだ岩や、崩壊した岩石で、岩肌が拡大しました。山麓は「火砕サージ」が駆け下りたところは、かなり広範に赤茶けています。「火砕サージ」の方向が、南東の向江浜、前田方向ならかなりの惨事となっていたことでしょう。
気象庁・予知委員会の発表でも、噴火にマグマがからんだ火山性爆発であったこと、今後、火砕流をともなった噴火の可能性を指摘しています。
留守番の島民によると、噴火はなかったが大音響があり、岩石の崩落か小規模な土石流が発生したようです。帰りのフェリー太陽から見た向江浜の浜辺近くの海水は、茶色く濁った状態でした。
家から眺める新岳は、以前より岩肌が拡大したためか、荒々しく、前よりも近づいたように思えます。

昨夜11日は久々に熟睡できました。さすが、メガネだけは枕元の「ハコ」に納めて、いざ鎌倉にそなえるようにしました。駐車もすぐに逃げ出せるよう、方向を考えるようになりました。

夜間の避難は厄介なことになりそうです。島内でも、寝待や湯向地区では噴火音が聞こえなかったようで、これも要注意です。


 
昨日13日、気象庁、京都大学などによる噴火説明会がありました。
今後の噴火ですが、気象庁によれば、今後、「火砕流をともなう噴火もある」とのこと、予断を許さない状況にあります。
警戒レベル1で噴火が起こったことに対して、研究者からは「失敗だった」との発言もありました。
火口近辺に設置されていた、気象庁、京大の観測機器のほとんどが吹っ飛び、専門家のとっても今後の情報が限られるようです(ここのところも、そんなことは想定されたことだろうにと、疑問におもいますが)。
研究者によれば「昭和6年当時の、状況に似ている」との事。昭和6年には3回爆発、昭和7~9年に毎年噴火、昭和8年には火砕流で七釜集落が全滅し、昭和9年には、土石流で1つの集落が全滅しています。


噴火の歴史は、上記の貴舩 森さんの報告以外に、気象庁や、口永良部島ポータルサイトの歴史年表に、記載があります。



 
噴火からはや10月です!              2015年5月26日

昨年8月の噴火の後、しばらくは変わりなかったのですが、
噴気の量が増え、風向きによっては亜硫酸ガス(二酸化硫黄)の臭いに悩まされるようになりました。風向きによるのですがガスの濃度が高い(月に1度くらいは、環境基準の1ppmを超えることがあります)と息苦しかったりセキが激しくなります。ガスの影響で、菜園の野菜が枯れたり、樹木も元気がありません。

火山の方ですが、
噴気量の多さや体には感じられない地震の多発に加えて、昨年末頃からは、山塊の膨張が顕著になり、火口周辺の地表温度も高くなりました。1月には震度1の火山性地震(震源が火口の直下3㎞)があり、3月には「火映」と呼ばれる現象が観測されました。マグマの上昇で火口が熱せられ、それが噴気に映って、赤く観測される現象のようです(ただし、肉眼ではなく高感度カメラでの観測です)。すべてのデータが高値で、安定しており、いつ噴火してもおかしくない状態が続いておりました。
さらに、
この5月に、震度3の地震(震源が火口の下1㎞)がありました。震源の深さが前回より浅くなりました(3㎞➔➔1㎞に変化)、つまりマグマが上がってきた・・・・・・と云う状態のようです。震度3の地震の後、24時間以内に再度有感地震があれば、警戒レベルを3から4に上げる・・・・との情報もありました。気象庁も町も緊張したようです。

幸いにも期限内に再度の地震はなく、警戒レベルはもとのまま。
今は高値安定状態に戻りました。
                 ・・・・・と云う状態です。



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