口永良部島
2014年噴火のページです
2014年8月3日 噴火の1分後 撮影:ネット管理者
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2014年8月3日12時24分、口永良部島の活火山・新岳が噴火しました。34年ぶりの噴火でした。幸いにも、島民と来島されていた皆さんは全員無事でした。
接近する大形台風11号の中で、再度の噴火が起これば避難のしようがなくなるとの危惧から、消防団の判断で子ども達や年配者、約70名が、島外に自主避難しました。その内3分の一は、屋久島町が用意した避難所で、台風が通過まで一週間を過ごしました。避難所となった「縄文の苑」での避難生活は、なに不自由なく、多くの皆さんから、お見舞いや差し入れを頂きました。皆さまのご厚意に心よりお礼申し上げます。
ご心配いただいた皆さまへの、ご報告とお礼をかねて下記に、
噴火の写真の他に、当日の様子や、これまでの噴火の歴史、避難所での生活体験記を、下にまとめました。
島民が撮影した噴火の記録です。
撮影:ネット管理者
降灰に追われるように避難しました。
撮影:ネット管理者
撮影:関口 浩さん
撮影のご一家は、降灰の中を避難されました。
撮影:関口 浩さん
本村に迫る降灰、幸いにも南風が降灰を押し戻したお蔭で、避難が混乱せずにすすみました。
撮影:ネット管理者
火口から4㎞の高台に避難。
撮影:ネット管理者
撮影:ネット管理者
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すぐに、消防車で番屋峯に避難を呼びかけた。理由としては予知が出来ていない噴火であった為、2次的な噴火を警戒した。湯向地区を除き、島民、来島者の避難は午後2時には完了した。昼食を食べていない人や、公民館に避難する人のために炊き出しを決定し、13名の婦人に協力を頂き、午後3時30分から公民館で炊き出しの準備、午後5時、番屋峯の避難所から解散し前田地区、向江浜地区、田代地区、寝待地区の住民は公民館へ避難させた。島民の死傷者なし。降灰、畑の作物被害あり。爆発音はジェット機の音、雷の音、採石場の大石を大量に流した音を全て足した様な轟音だった。 新岳の麓、火口から1.5キロ下の現場で作業をしていたボーリング会社の社員は、火砕サージに巻き込まれた。話によると、「空気が割れるようなバーンという音がした。」、「最初は雷だと思ったがすぐ違うと分かった。」、「車で逃げようとしたが他にも人がいるのに気が付き、助けにいったがすぐに火砕サージに飲み込まれた。」、「周辺は暗く、目も開けられないほどの世界だった。」、「全員で手をつなぎ少しずつ道を確認しながら本村集落の方向に歩き出した。」「灰の中はかなり熱かった。」、「しばらくすると風で灰が流されて視界が戻った、道が見えた、息がしやすくなった。」と話していた。彼らが助かった話の様子から、強い南風で助かった事が分かる。 |
「口永良部島 新岳爆発記録」 平成26年年8月12日
作成者 貴舩 森
年 次 |
西 暦 |
月 日 |
番 号 |
噴火規模 |
天保12 |
1841 |
4月3日 |
① |
新岳爆発 |
天保12 |
1841 |
6月15日 |
|
新岳大鳴動・大爆発 |
大正3 |
1914 |
1月12日 |
② |
鳴動あり・硫黄を噴出 |
昭和6 |
1931 |
4月2日 5月15日 6月6日 |
③ |
新岳大爆発・数日間地鳴り 新岳爆発・硫黄流出 新岳爆発 |
昭和7 |
1932 |
7月23日 |
④ |
新岳小規模噴火・鳴動あり |
昭和8 |
1933 |
12月24日 |
⑤ |
新岳大爆発・鳴動あり |
昭和8 |
1933 |
12月31日 |
|
24日~30日まで数回噴火 |
昭和9 |
1934 |
1月11日 |
⑥ |
新岳爆発・数回爆発 |
昭和20 |
1945 |
11月3日 |
⑦ |
新岳小爆発・山腹割目噴火 |
昭和41 |
1966 |
11月22日 |
⑧ |
新岳大爆発・噴石・降灰 |
昭和43 |
1968 |
12月21日 12月29日 12月30日 |
⑨ |
新岳爆発・年内に3回の噴火 |
昭和44 |
1969 |
3月まで |
|
新岳爆発・噴石・降灰 |
昭和47 |
1972 |
9月2日 |
⑩ |
新岳爆発 |
昭和48 |
1973 |
11月5日 |
⑪ |
新岳爆発・噴石・降灰 |
昭和48 |
1973 |
11月19日 |
|
5日~19日まで数回噴火 |
昭和49 |
1974 |
6月3日 |
⑫ |
新岳爆発 |
昭和51 |
1976 |
4月2日 |
⑬ |
新岳爆発・降灰 |
昭和55 |
1980 |
9月28日 |
⑭ |
水蒸気爆発・割目噴火 |
昭和57 |
1982 |
10月 |
|
噴気・噴気孔4箇所生成 |
平成3 |
1991 |
12月24日 |
|
有色噴煙が断続的に上がる |
平成8 |
1996 |
1月 |
|
火山性地震が増加 |
平成11 |
1999 |
8月26日 |
|
火山性地震が増加 |
平成26 |
2014 |
8月3日 |
⑮ |
新岳大爆発・水蒸気爆発・降灰・噴石・山頂の形が変化している事を確認 |
<注>上の表にある①や②は、下記の記録と対応しています。
「口永良部島の新岳爆発噴火の記録から」 平成26年年8月12日
① 天保12年6月15日(173年前)の新岳大噴火により、現在の前田地区にあった元村集落が全滅した。その為、それ以前の噴火の記録は、噴火による集落火砕により消失してしまった。他の記録としては口永良部島沿革史が存在していたが、昭和24年の屋久島村からの分村運動の折に枕崎市に貸したまま行方不明となっていると言われている。その為、天保の大噴火以前の記録はない。天保12年の噴火(2回目)での被害は死者が老婆1名との記録がある。昼間の噴火であった為に死者が少なかったと言われている。また、この噴火により防災として、当時は田んぼや湿地であった現在の本村に、集落を移す事となった。
② 大正3年の記録は火山噴火ではなく、鳴動と大量の硫黄の流出が確認されている。この頃は山頂で硫黄の採取が盛んであった。硫黄の採掘は元治1年(1864年)薩摩藩により開始されたが、藩による採掘は元治3年(1866年)に終わっている。採掘量が問題であったか、明治維新の影響かは不明である。その後、島津又七氏が県庁から明治4年、新岳、古岳の近辺を借地し、島津興業として明治5年から硫黄採掘を開始している。その後、明治44年に島津氏が亡くなり、借地権が無くなった。しかし、大正3年の硫黄噴出により、同年には大阪の硫黄鉱業会社(日の出鉱業)が、農商務省から火口付近600町歩の払い下げを受け、本格的に硫黄採掘が始まる。この事から、天保の大噴火からその後は、大きな噴火がなかった事が伺える。(天保12年の噴火から73年後)
③ 昭和6年の噴火は、かなりの規模の大噴火であった事が、記録から知ることが出来る。3月20日頃から鳴動があり、噴火前から予兆が確認されている。4月2日、午後7時20分の噴火で新岳の西側山腹が土砂崩壊し、負傷者も2名出ている。当日の噴火直前の午後6時40分頃にかなり大きな地震があったとある。本村区記録によると、(3日の夕刻、口永良部島と屋久島からの発動船48隻で、1097人の島民が屋久島の一湊、永田へ避難した。)と記録がある。他の記録には、消防団は島に残ったとの記録もある。その後も、(5月15日、午後8時30分頃、小鳴動と共に二回目の爆発をなす。)と記録が残っている。3回目の噴火は6月6日であった。安山 登氏の聞き取った調査記録によると、(5月11日、午後より大豪雨の為、向江浜部落は大洪水、午後5時半頃の事、埋没家屋5棟、流出人家3棟におよびたり。5月12日午後、向江浜洪水被害として出張、不可抗力とはかかる事実についての言か、大石流出して全く驚くの外なき現状なり。)と残されている。この事から噴火直後に降った大雨で向江浜部落は土石流の被害に遭っていた事が分かる。その後、昭和9年まで噴火が度々起こり、昭和10年4月4日、午後6時半頃の豪雨により、山に堆積していた灰と噴石が山津波となり、向江浜の部落を飲み込んだ。死者5名を出し向江浜部落の歴史は終わった。この事から学ぶのは、噴火が及ぼす災害は、噴火の時だけではないと言う事である。(大正3年から17年後の大噴火。)
④ 昭和7年7月23日は小規模、噴煙、鳴動、と記録が残っているだけで、この年は大きな噴火がなかった事が分かる。
⑤ 昭和8年12月24日、午前4時頃に大噴火。安山登氏の聞き取り調査記録によると、(全島が崩れるような大音響とともに爆発、31日まで強い爆発が数回続いた。)と記されている。大爆発し、七釜地区が全滅、死者8名、重軽傷者26名、家屋全焼15棟、牛、馬、山林、畑地に大被害があったと記録が残っている。しかし、重軽傷者数や全焼家屋の頭数などには、調査者により多少の違いがある。
⑥ 昭和9年1月11日、午後4時42分新岳が大爆発降灰や落石があり、向江浜地区の人々は全員本村に避難した。この噴火で4年間も続いた噴火の脅威は、一旦、収束したが昭和10年の豪雨による山津波は、集落を全滅させた。 ③参照
⑦ 昭和20年11月3日、時間不明、記録によると小爆発、山腹割目噴火、被害なし、と記録が残るだけで詳細な話がない。(昭和9年の噴火から11年後の噴火となる。)
⑧ 昭和41年11月22日、午前11時35分新岳大爆発、黒煙が上がり噴石、降灰があった。天候は晴れていた。記録には、前触れがなく突然の爆発で、噴煙は2000mに達し、落石の区域は吾郷より寝待仙水の間に大石落下、湯向地区に砂礫が落下、住家4棟の屋根に穴があく、開拓農道の各所に穴があき、大きなものは直径4m、におよぶ。との記録がある。また、新岳と古岳の5合目から6合目辺りで10数箇所出火し、その後自然鎮火したともある。死者は出なかったが重軽傷者3名を出した。噴火後の本村区の記録は、12月19日まで残っている。当日の午後2時には屋久島宮之浦から助役が来島し、農協に災害対策本部が設置され、同じ、2時には一湊消防団、10名が来島している。午後5時には(巡視船おおよど)が寝待沖に待機し、午後7時には(巡視船さつま)と(巡視船いき)が本村港に待機している。この事から、噴火の当日には早い対応を執っていた事がうかがえる。その後も地震活動が活発であった事からかなり警戒行動をとっている様子が記録されている。巡視船などはこまめに入港していた。この噴火の予兆は確認できていない。(昭和20年の噴火から21年後の噴火。)
⑨ 昭和43年12月21日から、昭和44年3月10日までの噴火は、数回の噴火があった。12月21日の噴火は朝5時30分、12月29日は午後2時43分と、3時5分の2回噴火している。12月30日の噴火は午後2時20分から15分間続く。昭和44年3月10日は大爆発と記録にある。被害はなし。(昭和41年の大噴火から2年後の噴火)
⑩ 昭和47年9月2日、新岳が噴火、黒色噴煙が確認されている。被害はなく特に大きな爆発ではなかったと思われる。(昭和44年の噴火から3年半後の噴火)
⑪ 昭和48年11月5日から19日まで、噴火の記録があるが、噴石、噴煙、降灰とある。11月5日の噴火は午前7時15分、6日の噴火は午後1時58分、7日の噴火は午後8時40分。(昭和47年の噴火から1年2ヶ月後の噴火)
⑫ 昭和49年6月3日、新岳噴火、噴煙との記録がある。特に大きな噴火ではなかったと思われる。詳細な記録や本村区の記録は現在確認出来ていない。(昭和48年の噴火から約8カ月後の噴火)
⑬ 昭和51年4月2日、午後3時30分、新岳爆発、山麓で爆発音が聞こえる。北西側約2キロの向江浜、前田集落に約一センチ降灰したと
⑭ 昭和55年9月28日、午前5時10分に噴火、水蒸気爆発、多数の爆裂火口が新岳の東側斜面に南北800メートル、ほぼ直線状の割れ目に沿って生じた。昭和20年の噴火と同じ場所、と記録がある。この噴火による被害はなかったと思われる。(昭和51年の噴火から4年半後の噴火)
⑮ 平成26年8月3日、午後12時24分、新岳大爆発、田代地区、寝待地区降灰、火砕サージ?が前田集落を飲み込む。その速さに、本村地区の人も巻き込まれる恐怖を感じたと言う。当日は晴れ、殆どの人が昼食中で家におり、家族が近くに居た事で避難が早かった。すぐに、消防車で番屋峯に避難を呼びかけた。理由としては予知が出来ていない噴火であった為、2次的な噴火を警戒した。湯向地区を除き、島民、来島者の避難は午後2時には完了した。昼食を食べていない人や、公民館に避難する人のために炊き出しを決定し、13名の婦人に協力頂き、午後3時30分から公民館で炊き出しの準備、午後5時、番屋峯の避難所から解散し前田地区、向江浜地区、田代地区、寝待地区の住民は公民館へ避難させた。島民の死傷者なし。降灰、畑の作物被害あり。爆発音はジェット機の音、雷の音、採石場の大石を大量に流した音を全て足した様な轟音だった。新岳の麓、火口から1.5キロ下の現場で作業をしていたボーリング会社の社員は火砕サージに巻き込まれた。話によると、「空気が割れるようなバーンという音がした。」「最初は雷だと思ったがすぐ違うと分かった。」、「車で逃げようとしたが他にも人がいるのに気が付き、助けにいったがすぐに火砕サージに飲み込まれた。」、「周辺は暗く、目も開けられないほどの世界だった。」、「全員で手をつなぎ少しずつ道を確認しながら本村集落の方向に歩き出した。」、「灰の中はかなり熱かった。」、「しばらくすると風で灰が流されて視界が戻った、道が見えた、息がしやすくなった。」と話していた。彼らが助かった話の様子から、強い南風で助かった事が分かる。(昭和55年の噴火から34年後の噴火)
参考資料
「口永良部島 噴火の記録」、安山 登
「口永良部島 本村区 噴火資料」
気象庁ホームページにも記録があります。
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ネット管理者による噴火・避難生活の体験記です。
ご心配いただいた皆さまへ
屋久島の避難所から 2014年8月5日 台風11号のこともあり、屋久島に避難しました。台風通過まで、 黒雲に追われるように車で避難。 この黒雲(黒い降灰+熱風) 子どものいる家庭にとっては、噴火が昼時で幸いでした。 また、夜中に噴火しておれば、状況が把握できず、 ともかく、島民と来島者が全員無事だったことは幸いでした。 初日3日の夜は島の公民館で一泊しました。 翌朝、町が仕立てた船便で、屋久島の施設に。今日まで、 お見舞い、ありがとうございました。取り急ぎ、 |
避難所生活 第2報です。 2014年8月10日 10日現在、屋久島の避難所で7泊8日目です。 台風は昨日無事に通過しました。幸いにも、
さて噴火にかかわる追加情報です。
◆火山情報
3日の噴火の後、新たな噴火はなし。
6日の晴れ間に、気象庁はヘリコプタからの観測をしたようです。
新聞社のヘリコプターからの写真によると、山麓は、
噴火直前まで、もっとも安心できる警戒レベル1でした。
7日朝には、
屋久島町の総務課長が避難所に説明に来られました。
6日に、気象庁から新たな情報が発表され、それによると、
今後は噴火があれば、火砕流の発生する可能性が出てきた・・・・
これにともなって、
我家から700m先の、「向江浜の入り口から先が立ち入り禁止」
「居住禁止」の禁を犯して住んでいた独り者の老人(
◆予兆はなかったのか?
警戒レベルは、爆発前には最も低いレベル1であったのが、
今回、レベル1の状態で、突然に噴火がおこったことに、
今後、たとえ警戒レベル1に戻っても、
◆写真から
総務課長が、島で撮影された(島民による)
南側の道路、
火砕サージが通過した境目も撮影されていました。
火砕サージが、前田や向江浜に向かっておれば、
◆ボーリング工事5人組
噴火当日は、火砕サージが通過した谷の手前(
◆ポータルサイト掲載の写真(島民撮影)で、
立ち登るきのこ雲の下に黒雲が迫っていますが、
新聞の報道写真では、火砕サージが駆け下りた山麓は赤茶けて見えます。方向は火口から南の山麓でした。もしこれが、南西向で集落に向かっておれば、かなりの被害がでたはずです。ラッキーでした。
◆避難所は、
老人用のデイケアーセンターにあり、間借り状態です。設備、
当初は、避難生活もいい体験になるかなと・・・・・・
活火山のある暮らしは、覚悟のうえでした。
と云うことで、明日11日は、島に帰れる・・・・・・と、
|
島に帰りました!! 2014年8月12日
昨日11日、台風が通過し避難所が閉鎖されました。
復活したフェリ-太陽で、11日午後に、島に帰りつきました。
家は無事。
動物病院のホテルで一人ぼっちだったみーちゃんは、
菜園は、被害なしでしたが、草ボウボウ。
新岳の山頂は、新たな火口ができ形状が一変しました。
気象庁・予知委員会の発表でも、
留守番の島民によると、噴火はなかったが大音響があり、
家から眺める新岳は、以前より岩肌が拡大したためか、荒々しく、
昨夜11日は久々に熟睡できました。さすが、
夜間の避難は厄介なことになりそうです。島内でも、
|
昨日13日、気象庁、京都大学などによる噴火説明会がありました。
今後の噴火ですが、気象庁によれば、今後、「火砕流をともなう噴火もある」とのこと、予断を許さない状況にあります。
警戒レベル1で噴火が起こったことに対して、研究者からは「失敗だった」との発言もありました。 |
噴火からはや10カ月です! 2015年5月26日
昨年8月の噴火の後、しばらくは変わりなかったのですが、 噴気の量が増え、
火山の方ですが、 噴気量の多さや体には感じられない地震の多発に加えて、昨年末頃からは、山塊の膨張が顕著になり、 さらに、
この5月に、震度3の地震(震源が火口の下1㎞)がありました。震源の 幸いにも期限内に再度の地震はなく、警戒レベルはもとのまま。 今は高値安定状態に戻りました。 ・・・・・と云う状態です。
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